歴史の計略に学ぶ2

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前回の歴史の計略に学ぶに続き、私が感心した歴史の計略を少しご紹介させていただこうと思います。

 

■孫臏の囲魏救趙策

中国の春秋戦国時代、孫子の兵法書を書いたとされる孫臏(そんぴん)という武将は、斉という国に仕えていました。
同盟国の趙国が魏国に攻められ、都を包囲されるまでに追い込まれた時、趙は斉に援軍を要請しました。

斉国の威王は、田忌と孫臏に趙を救うように命じます。
田忌はすぐに趙に向かおうとしましたが、孫臏は
「敵の虚を突いて魏の本拠地を攻めましょう」
と田忌を説得し、魏へ攻め込みました。

魏本国を攻めこまれた魏軍は、あわてて趙の包囲を解き、魏へと戻ります。
そこへ待ち構えていた斉軍に、魏軍は大敗を喫してしまうのです。

趙を救うために、趙へ援軍を向かわせるのではなく、魏を攻めることで魏軍の包囲を解かせ、同時に魏軍を走らせて疲労させ、待ち構えてこれを破るという見事な策です。
囲魏救趙というのは、兵法三十六計の一つです。
孫子の兵法書を書いた孫臏という武将は、やはり将としても有能な人物だったのです。

 

■太史慈の瞞天過海の計

三国志時代の太史慈という武将は、呉に仕えましたが、呉に仕える前は孔融という君主に仕えていました。
孔融が黄巾賊に城を囲まれた時、諦めて降伏しようと考えていましたが、太史慈は
「私が援軍を呼んで参ります」
と提案しました。孔融は、
「敵の包囲網を突破できるはずがない」
と言いますが、
「私に考えがあります。お任せください」
と言い、孔融は太史慈を信じることにしました。

太史慈は、的を持った数人の騎兵とともに、突然城外へ出ます。
包囲していた黄巾賊は敵襲だと思い、攻撃に備えましたが、太史慈は弓矢で的に射る稽古を始めたのです。
そして、それが終わると城に戻りました。

次の日も、同様に太史慈は城外で弓の稽古をしました。
黄巾賊は最初は警戒していましたが、6日間もこれが繰り返されと、警戒するものもいなくなりました。

そして、7日目に太史慈が城外に出ると、黄巾賊は
「また弓の稽古か」
と誰も警戒しなくなりましたが、今度は太史慈は一人で包囲網に突っこんできました。

唖然とする黄巾賊でしたが、時既に遅しです。
太史慈はまんまと包囲網を突破し、援軍を呼んで戻り、黄巾賊は敗れました。

瞞天過海も兵法三十六計の一つで、準備が整っていれば返って油断が生まれ、常に目にするものは疑いを持たなくなるのでこれを利用するという計略です。
使いようによっては、現代でも応用ができる考え方かもしれません。

 

■周瑜の借刀殺人計

三国志の赤壁の戦いの頃、呉の大都督周瑜は、魏の水軍都督の蔡瑁と張允さえ排除できれば、曹操軍の水軍を指揮できるものがいなくなり、弱体化できると考えました。
魏の水軍都督となった蔡瑁と張允は、劉表の子の劉琮が降伏し、曹操の配下になったばかりだったので、まだあまり信頼されていませんでした。

その頃、魏の蒋幹という周瑜の幼なじみが、周瑜に降伏勧告をしにやってきました。
周瑜はすぐにそれと見抜き、
「まさか降伏勧告をしに来たのではないだろうな」
と先手を打ちました。
蒋幹はいきなり本題に入るより、まずは世間話でもしようと思い、
「いや、ただ周瑜が懐かしくて様子を見に来ただけだ」
と言いました。
すかさず、
「よし、では奥で皆と飲もう。今夜は降伏のことを口にしたものは誰であろうが斬る」
と言い、蒋幹に説得させないようにしました。

さらにその夜、周瑜は酔いつぶれたフリをして、偽の書状を蒋幹にわざと見つけさせました。
その書状は、魏の水軍都督の蔡瑁と張允が、呉へ内通しているというものでした。

驚いた蒋幹はすぐに魏へと帰り、曹操へその書状を見せると、曹操は激怒し、蔡瑁と張允の首を斬ってしまいました。
曹操は、周瑜に計られたとすぐに気づきますが、手遅れでした。
水軍の経験者がいなくなった曹操は、代わりのものを水軍都督に当て、何とか訓練を続けましたが、やはり思うような結果はでませんでした。

この借刀殺人というのも、兵法三十六計の一つで、敵の刀を借りて敵を殺すという意味です。
敵の武器や力を借りて、敵を弱体化させるという計略ですが、戦いの歴史の中でこの計略は様々な場面で使われてきました。
現代でも、考え方としては役に立つと思います。

 

■諸葛亮の周瑜葬儀

三国志時代の赤壁の戦いの後、呉の大都督周瑜は戦いの傷が元で死んでしまいます。
その頃、荊州にいた劉備と呉の孫権は、荊州の領土を巡って争いが続いており、呉の人たちは、荊州が劉備に奪われたのも、劉備の軍師諸葛亮のせいだと思っていました。

そこで諸葛亮は、周瑜の葬儀へ向かうことにしました。
劉備は殺されてしまうのではないかと心配で止めましたが、諸葛亮は心配ないと言って、護衛数名のみを連れて呉へ向かいました。

諸葛亮が到着すると、呉の将軍たちは驚き、諸葛亮を殺そうとする者もいましたが、葬儀の場だからと皆が止めました。
諸葛亮はそれには目もくれず、葬儀の壇上へ行き、泣きながら周瑜の死を悼みました。

周瑜の功績を称え、これまでの周瑜の苦労、周瑜の優れた知能、そして諸葛亮への理解をも言葉にし、号泣しました。
それを見た呉の将兵は、全員がもらい泣きをし、本当に周瑜と諸葛亮は仲が悪かったのかと疑うようになったのです。

もともと周瑜は荊州を取り戻すために、劉備との戦いを孫権に勧めてきたのですが、他の者たちが曹操と戦うために劉備とは同盟しておくべきだと止めていたのです。
しかし、諸葛亮の葬儀での振る舞いを見ると、それも嘘ではなかったのかとさえ思えるようになったのです。

これは劉備と呉との友好度を高めるために、諸葛亮が行った演技でした。
諸葛亮にとっては、呉との同盟を維持した上で、荊州を借りておきたいという思いがあり、劉備と戦おうとする周瑜は邪魔な存在ではありました。
周瑜が死んだことで、一芝居打ち、呉との関係修復をしたのです。
国のためなら大胆に演技すらしてしまうという諸葛亮の発想は、並の軍師には見られません。

我々も、状況によっては演技が必要な場面もあるでしょう。
こういった優れた計略を学ぶことで、生きる知恵を身につけていって、上手に生きていきたいものです。

 



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