物事を多角的に考える24
前回に続き、様々な事例について多角的に考えてみたいと思います。
■東京オリンピックのマラソン移転について
先日、東京オリンピックのマラソンと競歩を札幌で開催することに正式決定しました。
これは、今年2019年ドーハで行われた世界陸上のマラソンで、暑さによる棄権者が続出したことを受けての決定とされています。
ドーハの世界陸上では、暑さのピークは過ぎていたものの、確かに40度を超えるような暑さだったので、かなり早朝からのスタートされたのですが、それにも関わらず、暑さで命の棄権を感じたために棄権する選手が続出しました。
東京の夏の場合は湿度も高く、熱中症患者も毎年増えているために、選手の体調をIOC(国際オリンピック委員会)が考慮したためと思われます。
既に決定してしまったため、これを覆すことはできませんが、東京都民からも不満の声が相次ぎました。
暑さによる懸念は、東京でオリンピックの開催が決定される前から分かっていたことであり、開催前1年を切っている段階での変更は明らかに遅すぎます。
さらに、東京都もその暑さ対策で何億円もの経費を使ってきてしまっています。
札幌でマラソンと競歩を行うこと自体に問題はないのですが、その決定方法と時期に不満が続出しました。
では、なぜこのような事態になってしまったのでしょうか。
IOCとしては、ドーハの結果を受けて選手の体調を考慮してのことですが、東京都知事に何の連絡もされないまま決定に至ったのはあまりにも不自然です。
ただ、日本の大会組織委員会の森喜朗氏は知っていたようですので、小池都知事のみが蚊帳の外だったようです。
私の推測ではありますが、森喜朗氏と小池都知事が不仲のためにこのようなことになったのではないでしょうか?
普通なら開催都市である東京の都知事に何も連絡しないまま、一部の競技を他の場所に移すということは考えられません。
小池都知事は自民党と揉めていますので、そういったことは十分に考えられることです。
もし事前に相談があれば、都知事の説得により事態が変わっていたかもしれません。
ただ、誰しも苦手な相手や、トラブルで人間関係が壊れることもありますから、不仲になっていること自体を批難するつもりはありません。
しかし、不仲だと分かっているなら、大会組織委員会やIOCの動向は常にスパイのような人を使ってでも情報収集をしておくべきだったと言いたいのです。
情報収集して一部の競技が移転されそうだと分かったなら、すぐに間に割って入り、大量の税金を投入して暑さ対策をしてきたことや、東京でマラソンや競歩を開催することのメリットなどを訴え、移転を阻止すべきだったのです。
今回の件については、IOCばかりが批難されているようですが、私は東京都知事の失態と考えます。
私は元々東京オリンピック開催には前向きでなかったため、別にマラソンと競歩がどこで開催されようとも文句はないのですが、今回の件を分析すると、そのような結論に達するように思います。
■数学は何のために学ぶのか?
文系の方は、数学なんて社会人になっても役に立たないと言うのをよく耳にします。
確かに、微分積分や三角関数など、社会人になるとほとんど使う機会はありません。
ただ、以前も書きましたが、数学というのは、考え方や問題解決力を身につけるというところに真髄があります。
例えば、小学校の時に、体育で跳び箱を極めたとしても、社会人になっても跳び箱をやるようなことはないはずです。
しかし、跳び箱を跳ぶことで、基礎体力をつけるという意味があります。
数学もこれと同様と考えていただければ良いでしょう。
微分積分や三角関数など、社会人で使うことはなくとも、その考え方や、問題解決のために頭を使うという地頭を鍛えているのです。
もし、「数学なんて社会人になっても役に立たない」とか、子どもに「なぜ算数を勉強しなければいけないの?」などと聞かれたら、このような跳び箱の例を出して説明してあげると良いでしょう。
■善悪の問題
最近、ネットで少しニュースになっていたのが、学校教育の中で、善悪を判断を求める問題を出すのはどうかというものがありました。
その問題というのは、電車の線路切り替え装置のところに自分が立っていて、電車が猛スピードで走ってきて、このままだと線路上で工事をしている5人の作業員がひかれて死んでしまうという状況で、線路切り替えをもし行ってしまうと、その先で1人の作業員がいて、電車にひかれて死んでしまうというというものです。
このような問題を子どもに出題させるというのは、少し酷かもしれませんが、私は仮定の話ですし、最善策を考えさせるには良い問題ではないかと思いました。
線路を切り替えてしまったら、1人が死んでしまうが、5人を助けられるということですが、別に切り替えるか切り替えないかだけの選択肢ではないと私は思うからです。
解答としてなるほどと思ったのは、何もしないというものです。
何もせずに5人が死んでしまっても、それは電車の運転手の責任であり、自分の責任にはならならいが、線路を切り替えてしまって、1人を死なせてしまったら、自分の過失になってしまうというものです。
確かにそれは正しい決断かもしれませんが、結果的に5人も死んでしまうのであれば、道徳的にどうかという問題になります。
以前も書きましたが、このような状況の時は、2択として考えるのではなく、両方を助ける方法を真っ先に考えるべきと私は思います。
例えば、自分が飛び込んで自分の体を犠牲にして電車を止めるというのも選択肢の一つだと思います。
自分を犠牲にしたくなければ、何か大きな物を線路上に置いて電車を止めるという方法もあります。
ただ、この場合は電車が脱線して、乗っている人が死んでしまう可能性があるので、最善とは言えません。
最善策としては、大声を上げて作業員たちに危険を知らせるということではないでしょうか?
もし騒音が大きくて声が届かないなら、別の方法で大きな音を出したり、石を投げるなどしてとにかく電車の接近を知らせるということです。
この問題は、善悪を考える問題というよりは、頭を使って様々なことを考えさせるような問題のような気もします。
学校でこのような問題を出すのはどうかというご意見もありますが、こういったことをたくさん考えさせるような教育の方が良いようにも思えます。
こういった問題は、物事を多角的に考えるためにも有効と思いますので、お子さんたちにも考えさせて脳を鍛えるというのも良いのではないでしょうか?