歴史の面白い謎2

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以前の歴史の面白い謎に続き、今回も少し戦国時代の面白い謎を考察してみたいと思います。

 

■上杉謙信はなぜ生涯独身だったのか

上杉謙信は、一度も結婚せず、実子もいませんでした。
上杉謙信ほどの大名ともなれば、女性に困ることもありませんし、国を乱さないためにも世継ぎが必要です。

養子は三人ほどいましたが、やはり戦国時代の大名であれば、実の自分の子どもに後を継がせるのが普通です。
実際、上杉謙信の死後は、後継者争いが発生し、一時的に国は乱れてしまいます。

では、なぜ上杉謙信は一度も結婚をしなかったのでしょうか。

諸説ありますが、もっとも有力なのは上杉謙信の男色説です。
現在でも同性愛者というのは、テレビなどでよく見かけますが、戦国時代でもそういった人物は多かったようです。

大名クラスでもそういった人は結構多かったらしいですが、後継者が必要なため、我慢して結婚し、子どもを作ったらしいです。
かの武田信玄もそうだったのではないかと言われています。
上杉謙信は養子をもらうことで、後継者問題を回避しようとしていたようですが、やはり結婚をしなかったのは謎です。

この説の発端は、武田信玄が信濃攻略のため、村上義清という豪族が信濃から追い出され、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったのですが、その時に無条件で助け、武田信玄から奪い返した土地を、村上義清に返しています。
普通の大名であれば、無条件でこのようなことを受けるのは考えられないのですが、もしかしたら当時の長尾景虎は村上義清に好意を抱いたのではないかと言われています。

上杉謙信女人説もあるのですが、これは下克上の世の中では無理があると思います。
いくら優秀な女性だったとしても、わざわざ女性に男性のフリをしてもらって上に担ぐよりも、家臣の方が地位や権限を奪うことを考えるはずだからです。

いずれにせよ、はっきりとしたことは分かりませんが、軍神と言われた上杉謙信がこのような問題を抱えていたのは興味深い話です。

 

■なぜ武田信玄は自分の死を三年も隠させたのか

武田信玄といえば、戦国最強の大名と言われるほどの人物ですが、武田信玄の最大の失策は、遺言と言われています。

武田信玄の後継者は武田勝頼となりましたが、その勝頼がまだ頼りないと判断した武田信玄は、
「自分の死を三年は隠せ」
と命じてこの世を去りました。

武田信玄が健在であれば、迂闊に他の大名も手が出せませんし、その間に武田勝頼が家臣達の心を掴み、立派な大名となってほしいということから遺言を残したと思われます。
しかし、意気揚々と上京をしていた途中で、急に武田軍が退却したために、武田信玄が急死したのではないかという噂はすぐに隣国にも流れてしまいます。

そのため、徳川家康軍が一気に盛り返し、武田領へ猛攻を仕掛けてきます。
攻撃を受けた城主は、武田勝頼に援軍を要請しますが、武田勝頼は遺言があるので動けませんでした。
武田勝頼だけが援軍に向かったのでは、武田信玄の死をバラすような行動となるので、動けなかったのです。

このせいで駿河などの城は陥落し、武田勝頼の信頼はガタ落ちとなってしまいます。
徳川軍の猛攻は続き、次々に武田の城が落とされてしまう中、勝頼はとうとうしびれを切らして、三年を待たずに徳川攻略のために出兵します。

ただ、武田勝頼は信玄が思っていたよりも優秀な人物で、この後武田軍は徳川軍に攻勢をかけて、領地を信玄以上に広げることに成功します。
しかし、長篠城の攻略中に、織田信長と徳川家康本隊の援軍が接近します。

織田軍は馬防柵を作り、武田軍を挑発しました。
勝頼は、家臣の制止を全て無視して、突撃を仕掛けますが、織田軍の鉄砲隊にやられ、大敗を喫することなります。

この勝頼の行動は、武田信玄の遺言の影響があると言われています。
武田信玄が、勝頼が頼りないと判断したことで、周囲の信頼を失っていたため、なんとしてでも織田と徳川を追い返して、信頼を勝ち取りたいという思いがかなり強くなっていたようです。
つまり、長篠の戦いの敗因は、武田信玄の遺言のせいである可能性が高いのです。

もし、武田信玄が自分の息子を信頼し、全てを勝頼に託していれば、このような焦った突撃をせず、武田の滅亡も免れていたかもしれません。
武田信玄は病気のために、正しい判断ができずにそのような遺言を残してしまったという説もありますが、武田信玄としてみれば、最も優秀だった長男の武田義信を自分の手で殺してしまい、その長男と比較してみれば、勝頼はあまりにも頼りないという判断だったのかもしれません。
武田信玄の遺言も失策ではありましたが、それは結果論であり、当時はそれが正しいと判断したのだと思われます。

 

■北条氏政はなぜ豊臣秀吉と戦ったのか

豊臣秀吉が四国も九州も制圧し、天下統一間近となった状況であっても、北条氏政は秀吉に降伏することなく、戦うことを決意します。
当時の状況からすれば、どう考えても勝ち目はなく、無謀な判断だったと言われています。

なぜ、北条氏政は豊臣秀吉と戦ったのでしょうか。

これは、色々と理由があるのですが、まず第一に北条氏政は、領地問題などから秀吉を快く思っていなかったというのが挙げられます。
また、当時は奥州の伊達政宗が秀吉に降伏をする旨を伝えてはいますが、まだ秀吉と面会したわけではなく、伊達政宗は、北条と秀吉が戦いになれば、北条に味方すると氏政に伝えていたようです。
さらに、子ども同士が婚姻関係にある徳川家康も味方となってくれれば、十分に勝機はあると判断したようです。

結果的には、徳川家康も北条攻めに加わり、伊達政宗も秀吉に降伏してしまったため、北条も最後に降伏したわけですが、北条氏政が秀吉と戦ったのは、そういった理由があったのです。
ただ、この無駄な戦いのせいで、北条家のほとんどの人は切腹となり、事実上、北条家は滅亡してしまいます。

 

■徳川秀忠はなぜ真田昌幸を攻めたのか

関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠は3万5千もの兵を率いて中山道を通り、上田城の真田昌幸に足止めを喰ったために、関ヶ原の戦いに間に合わず、家康にひどく叱られたと言われています。
しかし、この話には疑問が残ります。

もし、徳川秀忠も関ヶ原に参戦させるなら、家康とともに東海道を進めば良かったのです。
では、なぜ徳川秀忠は中山道を通ったのでしょうか。

これは、家康が上田城の真田昌幸を、秀忠に攻めさせたのではないかという説が有力です。
関東の兵が京に向かえば、当然江戸は手薄になります。
そこへ上杉景勝と真田昌幸の軍が、関東に乱入してくれば、本拠地が危うくなるのです。
事実、上杉景勝も真田昌幸もそのつもりだったようです。

そのため、最上義光や伊達政宗らに上杉景勝を抑えさせ、秀忠に真田昌幸を抑えさせようとしたのでしょう。

しかし、真田昌幸はたった2千ほどの小大名にすぎません。
それに対して、徳川秀忠軍3万5千は多すぎますが、恐らく早々に上田城を陥落させた後に、関ヶ原に向かわせるつもりだったと思われます。

ところが、真田昌幸の智謀により、秀忠は上田城をなかなか落とすことができないばかりか、かなりの損害を出してしまいます。
また、徳川家康は関ヶ原で西軍の兵の多さを見て、秀忠に上田城を無視して援軍に来るように伝令します。

秀忠としては、このまま真田に損害を被ったまま引き上げることができず、何とか城を早く落とそうと猛攻を仕掛けます。
しかし、真田昌幸は城を死守し、徳川の軍勢だけが死傷者を増やすばかりの状況でした。

家臣の説得もあり、これ以上は時間をかけられないと判断した秀忠は、上田城攻略を諦めて関ヶ原に向かいますが、結局関ヶ原の戦いには間に合わず、東軍が勝利を収めていました。
上田城を攻略できなかった上に、徳川軍にかなりの損害を出し、さらに関ヶ原に間に合わなかったということで、秀忠は家康にひどく怒られることになるのです。

つまり、元々、徳川秀忠は上田城の真田昌幸を攻撃するために、中山道を通ったというのが、有力な説となっています。

 
このように、歴史には面白い謎がまだまだたくさんあります。
他にも面白い謎があれば、また別の機会にご紹介できればと思います。

 



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