歴史の面白い謎

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私の趣味で恐縮ですが、歴史には謎が多く、勉強するほど面白いものです。
歴史の授業で習ったことも、間違っていることもあります。
日本の戦国時代の面白い謎を少しご紹介します。

 

■最大の謎は秀吉の大返し

戦国最大の謎と言われているのが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の大返しと言われているものです。

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた後、中国地方の毛利攻めをしていた羽柴秀吉が、7日後には京都の天王山に到着し、明智光秀を破ったという話です。
記録上、7日になっているのですが、専門家の検証でも、当時の兵士たちが中国地方から天王山に兵士を走らせるのは、ギリギリということです。

流れとしては、
本能寺の変が起こる
 ↓
早馬が秀吉の元に走って知らせる
 ↓
秀吉が毛利と和睦を結ぶ
 ↓
秀吉が兵士を引き連れて姫路城に帰還
 ↓
秀吉が天王山へ出陣
 ↓
明智光秀と戦をして勝利する
となります。

兵士たちを走らせて7日間で天王山に到着するには、兵士たちの武具を捨てさせ、昼間も夜中も走らせればギリギリ間に合うという計算になります。
仮に間に合ったとしても、武具を捨て、寝ずに走って疲れきった兵士たちが、待ち構えていた明智光秀軍に勝てるはずがありません。

では、なぜ天王山の戦いで秀吉が勝てたのでしょうか?

一説として、明智光秀が謀反を起こすことを秀吉が予め知っていた場合、7日でこれが可能になります。
もし、光秀の謀反が起こることを知っていたら、姫路城に戦える兵士を残して準備させておき、毛利との説得もある程度進めておけば、本能寺の変が起きた後、すぐに毛利と和睦を結ぶこともでき、さらに秀吉と数名の武将のみが馬で姫路城に帰還し、そのまま準備していた兵士を連れだして天王山へ行軍すれば、明智光秀軍に勝利することができます。
中国攻めをしていた兵士は、後でゆっくり姫路城に帰還させれば良いのです。

仮にこの説が正しいとすると、なぜ秀吉が光秀の謀反を知っていたのかが問題になります。
明智光秀が、このようなことを当時忠臣とされていた秀吉に話せば、即座に謀反人として捕われる可能性があります。
また、明智光秀の性格からして、他の人に話さなかった可能性が高いので、謀反の計画が漏れて秀吉の耳に入ったとも考えにくいですし、秀吉が間者を使って独自に調査して分かったという可能性もないでしょう。

比較的有力な説が、秀吉本人が明智光秀に、謀反をそそのかしたというものです。
光秀は信長を憎んでいましたし、光秀が謀反を起こしても、必ず秀吉が光秀に味方すると伝えておけば、謀反を予想できたのは容易なことです。
光秀にしてみれば、味方のはずの秀吉が攻撃を仕掛けてきたわけですから、さぞ驚いたことでしょう。

この説はかなり辻褄が合いますが、これが正しいとすると、秀吉こそが天下の謀反人ということになります。
が、実際の歴史は、秀吉は謀反人を誅殺した英雄のような扱いとなっています。

真実は謎のままですが、こういった謎があるからこそ、歴史は面白いのです。

 

■桶狭間の戦いはあったのか

有名な桶狭間の戦いですが、これも実際にあったのか、謎とされています。

桶狭間の戦いは、数千人ほどの織田信長軍が、二万人の今川義元を奇襲で破ったとされる戦ですが、記録としては織田家の記録にしかなく、他の記録に桶狭間の戦いはどこにもないとのことです。
織田家の名を轟かせたというほどの戦だったとしたら、他の記録にも記述がないとおかしいのです。
もちろん、戦争や火事などで失われた記録もありますが、現存する記録もありますから、どこかしらに桶狭間合戦の記述があるはずなのです。

また、今川義元は当時、東海一の弓取りと言われたほどの優秀な大名で、雨の中で地形を活かした奇襲とは言え、数千の信長勢に負けるというのは考えにくいのです。

一説に、織田家から降伏に出向いた使者が実は刺客で、降伏のために今川義元と対面した時に、暗殺したのではないかというものがあります。
織田家としては良い記録を残したいので、暗殺であっても戦で勝ったという偽の記録をしてしまい、その記録を元にした作り話が江戸時代に流行り、現在多数の資料にその作り話としての歴史が残っているのではないかということです。

これも真実は分かりませんが、上の仮説が真実だったとしたら、桶狭間の戦い自体存在していなかったことになり、歴史の教科書も間違いということになります。

 

■豊臣秀頼は秀吉の子なのか

天下を統一した秀吉には、跡取りがいないという大きな問題がありました。
世間一般には、側室である淀殿が産んだ鶴松と秀頼が秀吉の実子とされています。
このうち、長男の鶴松はわずか3歳で病死しています。

秀吉は女好きで側室も多かったので、跡取りがたくさんいてもおかしくはないのですが、なぜかあまり子どもができませんでした。
他の大名は多くの男子が産まれる中で、天下人の秀吉に子どもができないのは、やはり秀吉に原因があると見て間違いないでしょう。

もともと秀吉は、子どもを作る機能を失っていたと考えられます。
しかし、それが正しいとすると、鶴松と秀頼は誰の子どもなのかという問題が発生します。

秀吉に跡取りがなく、天下人の秀吉が死んでしまったら、間違いなく戦国の世に戻ってしまいます。
それを案じ、また自分の子どもに天下人を継がせたいと思う淀殿が、他の男と交わって、男子を産んだ可能性があります。

淀殿の思惑は当たり、次男の秀頼は天下人を継いだわけですが、徳川家康の謀反により、結局戦いは起きてしまいます。

成長した秀頼は、秀吉に似ても似つかない大男となります。
秀頼が秀吉の子でないとすると、誰の子なのでしょうか?

一説には忍びの仕業ではないかというのもありますが、こればかりは淀殿本人に聞いてみないと分かりません。
いずれにせよ、秀頼が秀吉の子どもという可能性はかなり低いでしょう。

しかし、歴史上では、秀頼は秀吉の実子とされ、天下人を継いでいます。
歴史は調べれば調べるほど、このような面白いことが分かるものです。

 

■戦国時代の面白い謎

戦国時代には、他にも面白い謎がたくさんあります。

・なぜ上杉謙信は、一度も結婚せず、子どもも作らなかったのか
・なぜ武田信玄は、自分の死を三年も隠させたのか
・なぜ直江兼続は、徳川家康を挑発したのか
・なぜ徳川秀忠は、関ヶ原に行かず、上田城の真田昌幸を攻めたのか

など、細かいものを含めると、多くの謎が残されていて、調べていくほどに当時の人たちの気持ちが分かり、真実に近づいていくものです。

また、戦国時代以外にももちろん謎はあり、解明されると教科書の内容に変更があったりします。

歴史に興味のない人は、どうでも良いことかもしれませんが、故きをたずねて新しきを得る(温故知新)という言葉もあり、昔の事を調べると色々と役に立ちますので、少し勉強してみてはいかがでしょうか。
 



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