四面楚歌は計略だった?

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■四面楚歌

周りは敵だらけで孤立してしまったことを四面楚歌ということは、学校で習った方も多いと思いますが、四面楚歌というのは、実際は置かれた状況ではなく計略だったのです。

秦の始皇帝の亡き後、崩壊した秦に代わって項羽と劉邦という人物が立ち上がりました。
項羽と劉邦は互いに争って、項羽は強大な武力で劉邦を圧倒しますが、劉邦はカリスマ性に優れた人物で、負け続けても次々と優秀な人材が集まり、張良という軍師によって形勢は逆転します。

大きな戦いに敗れた項羽は砦に逃げ込み、その砦を劉邦軍が包囲します。
この時、項羽の出身地である楚の歌が、包囲している敵陣から聞こえてきたため、
「故郷である楚の兵士が皆敵になってしまった」
と項羽が言ったのが、四面楚歌の元となっています。

しかし、実際はその段階では、それほど楚の兵士が劉邦軍にいたわけではありませんでした。
これは、項羽の戦意を喪失させるための張良の策でした。

裏切った楚の兵士たちから楚歌を教えてもらい、全員に楚歌を歌わせたのです。
この策は見事に当たり、項羽は逃げるために砦から脱出を計り、逃げ出したところを伏兵で項羽を捕らえたのでした。

四面楚歌という言葉自体は、周囲は敵だらけという意味で間違いないのですが、実際の意味は少し異なっていて、張良の策だったというのは面白い話かと思います。
 



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