豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのか

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのか

天下を統一した豊臣秀吉は、なぜか兵を海外に向け、朝鮮出兵をしています。
せっかく天下統一して平和になると思っていたのに、また戦になるわけですから、民衆も兵たちもうんざりしたはずです。

豊臣秀吉は、なぜ朝鮮出兵をしたのでしょうか?
戦国時代には、南蛮文化も入ってきており、日本の外には国がたくさんあることも、ようやく分かり始めた時期ですが、日本を支配したからと言ってすぐに世界を支配しようと思うでしょうか?

豊臣秀吉は、他の国を支配しようとしたと言うより、もっと精神的な問題が強いようです。
この頃、豊臣秀吉の心は、後継者問題で大きく揺れていました。

ご存知の通り、秀吉には子どもがなかなかできませんでした。
天下人となっても、子どもがいない事態は変わらず、秀吉は焦ります。

自分が死ねば、後継者がいない豊臣家は、当然窮地に陥るからです。
一応、秀吉の親戚を養子として、継がせるつもりではあったのですが、やはり不安が残ります。

そこで秀吉が考えた苦肉の策が朝鮮出兵だったと考えられるのです。
と言いますのは、天下統一したばかりであっても、大名の信頼関係はそれほど厚くなく、いつ反旗を翻してもおかしくない状態であり、大名同士の結束力を高める必要がありました。
結束力を高めるためには、共通の敵がいれば、大名同士が結束して立ち向かうのではないかと考えても不思議ではありません。

現代でも、アニメやゲームなどで、敵同士またはライバル関係であった人が、共通の敵が現れることで、手を組んで味方になったいう話はよくあります。
特に戦いともなれば、戦友という結びつきは非常に強い絆を生むことになり、そのことを秀吉は体験をもって、よく知っていたと思われます。
そうして、大名同士の結束を強くすれば、自分の死後も互いに争うことはないと考えたのではないでしょうか。

しかし、淀殿が子を産んだことで、事態は急変します。
朝鮮出兵は2度ありましたが、1度目は淀殿が子を産んだことで、途中で中止になります。

1度目の文禄の役の後、淀殿が豊臣秀頼を産んだ直後に停戦となります。
2度目の慶長の役の時は、秀吉が病死したために、日本軍は全軍撤退となりました。

秀頼が秀吉の実子かどうかは疑問が残りますが、いずれにしても、子どもが産まれたことで朝鮮出兵を止めていますので、やはり後継者問題が大きく関連していると考えられるのです。
秀吉の実子が後継者として生きていれば、秀吉の死後も安泰と考えたのかもしれません。
 



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