徳川家康の関東移封は昇進?

0 Comments


※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■徳川家康の関八州への移封は不満だったのか

北条征伐後、豊臣秀吉は天下を統一を達成し、大幅に国替えや論功行賞が行われました。
この時、徳川家康の元々の東海の領地を没収され、関八州を与えられました。

「これには徳川家康も不満を我慢して従った」という表現がよくされますが、本当に不満だったのでしょうか?

確かに、関八州は京の周辺諸国よりも田舎ではありましたし、北条らの戦続きで大地は荒らされていました。
また、今までの故郷や、頑張って領地を獲得してきた、三河・遠江・駿河などの領地が没収されたことはショックだったでしょう。
秀吉が徳川家康を京都から遠ざけたという意味もあると思っている人もいらっしゃるようです。

しかし、これらの解釈は間違っている可能性が高いです。
恐らく、徳川家康本人は、関八州への移封を喜んだはずです。

というのも、関八州を与えるというのは、西日本は秀吉が統治し、東日本は家康に任せるという意味も含まれます。
鎌倉時代からの歴史を勉強すれば分かりますが、これは秀吉がトップで、家康をNo.2とするということになります。

室町時代からは、足利家が兄弟で西日本と東日本を統治していました。
東日本の足利将軍に次ぐNo.2のポジションが関東管領で、この地位を巡って、北条や上杉や武田らがずっと争ってきた歴史があります。

北条征伐後は、関八州を誰に任せるかは非常に重要な選択となります。
当時は、徳川家康以外にも、毛利輝元、島津義久、伊達政宗、上杉景勝など、名だたる大名が多くいました。

その中で家康に関八州を任せたのは、非常に大きな意味を持ちます。
当時、秀吉には実子がなく、秀吉に万が一のことがあれば、家康がかなりの権力を握ることになるのです。
これを喜ばなかったとは思えません。

東海の徳川領土が奪われたのは、その領域が西日本に属しているからです。
今までの領地を奪われたことはショックだったと思いますが、天下を狙える位置にきたという意味では、喜んだ可能性が高いと思われます。

 

■徳川家康はいつ天下を意識したのか

話は戦国時代に移りますが、徳川家康が関ヶ原の戦いを制し、江戸幕府を開いたことで、戦国時代は幕を閉じました。
素朴な疑問ではありますが、徳川家康が天下人を意識したのはいつ頃だったのでしょうか?

織田信長が天下一統を意識したのは、天下布武を掲げた、岐阜城を占拠した時だと言われています。
岐阜城は、元々は稲葉山城という名前だったのですが、信長によって岐阜城に改名されました。

岐阜というのは、古代中国の周王朝の文王が岐山から天下平定したのを因んで名付けられたとされています。
ここで、天下布武、つまり天下に武を布くという旗を掲げて、天下一統を目指したというのは明確に分かっています。

豊臣秀吉が天下一統を意識したのは、やはり本能寺の変によって、信長とその長男の信忠が討たれた時かもしれません。
それまでは、信長の忠臣として懸命に働いていましたが、織田家の柱を失ったと知るや、織田家に対して謀反を起こしています。

もちろん、最初は織田家の再興と称して明智光秀を討っていますが、織田家への謀反が明確になったのは、清須会議の時と思われます。
この時、秀吉は、信長の次男信雄を推す柴田勝家と対立し、信忠の長男である幼い三法師を織田家当主として押し切り、実権を握りました。

その後の秀吉は、天下を意識するような戦略で、次々と、同盟、降伏勧告、合戦を行い、ついには天下を統一します。

ところで、徳川家康の場合はどうでしょうか。
徳川家康は、織田信長の同盟者で、本能寺の変の後、秀吉と対立するもすぐに和睦をして、結局は秀吉の一家臣のような扱いを受けています。
その頃は秀吉に信頼はされていましたが、国の大きさとしても大大名の一人といった感じで、天下人を意識したのがいつ頃かは不明です。

その後、北条家を討伐して関八州を徳川家康に与えられますが、祖国の三河国や戦で勝ち取った駿河などの国は没収されてしまい、家康も意気消沈したとされています。
ただ、私は、関八州を得た時こそ、家康が天下を意識した時ではないかと考えます。

以前にもこのサイトで述べていますが、関八州を得るということは、東日本の統治を任せられることにもなり、秀吉に次ぐ二番手の地位に就くも同然と考えられるからです。
確かに、関東は北条家が戦を繰り返したために荒れ果てていましたし、関東平野は湿原が多く、発展は難しい土地でした。
かつ、祖国や今まで戦で得た土地を失ったというショックは大きかったのは間違いないでしょう。

ただ、関八州というのは、北条や上杉が戦を繰り返して、意地でも欲しかった土地でもあります。
上杉が関東管領にこだわったのも、関八州を得るためだったと考えられます。

元々、室町時代に入ってから、東西を分割して統治するのが普通となっていて、関八州を統治しているものが東日本を統治してきたという経緯があります。
そのため、関八州を得るということは、東日本を統治を任されるということになり、西日本統治者に次ぐ二番手の地位になるということです。

関八州を得た家康は、事実上、天下二番目の地位に就いたということになり、さらに後継者がいない豊臣秀吉が死んだ後にどうなるかを考えたのは必然と言えるでしょう。

北条家討伐後、関八州が誰に与えられるかというのは、非常に重要な問題だったのです。
前にも書いた通り、最も有力だったのは、早くから秀吉と同盟していた上杉景勝だったのです。
上杉景勝は、名目上は上杉謙信から関東管領を継いでいますし、ずっと北条と関東を争っていた経緯がありますので、関八州は喉から手が出るほど欲しかったはずです。

ところが、秀吉は家康に関八州を与えました。
理由としては、やはり秀吉がそれだけ家康を信頼していたからでしょう。

もし、関八州が家康ではなく、上杉景勝に与えられていたら、歴史は大きく変わっていたと思われます。
それこそ、景勝が豊臣家を守って、江戸幕府など開かれていなかったかもしれないのです。

そのくらい、関八州への移封は大きいものだったのです。
家康が天下を意識したのは、もっと前かもしれませんが、関八州が天下人への足がかりとなったのは間違いないと言えます。
 



関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを投稿する

メールアドレスが公開されることはありません。メールアドレスを入力すると、返信があった時に通知されます。
※が付いている欄は必須項目です。

※コメント送信前に以下をご確認ください。

コメントは承認制になっております。
どんどんお気軽にコメントを投稿していただいても構いませんが、記事の内容と関係ないものは掲載されませんので、ご注意ください。
逆に、記事の内容に沿っていれば、どんな批判的なコメントでも受け入れさせていただきます。

私自身、未熟なことは重々承知しておりますので、批判的なご意見を書き込んでいただくのは大いに結構なのですが、どこをどう改善すれば良いか分からないコメントも多いため、できましたらどの部分がどういった理由でダメなのかや、改善策も述べていただけますと幸いです。