歴史の面白い謎10

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前回に続き、歴史の面白い謎について少しご紹介させていただこうと思います。

 

■源義経は頼朝と戦おうとしたのか

源平合戦では、平家に対して源頼朝が挙兵し、弟の義経を西に派遣することで平家を滅亡させました。
その後、義経は兄頼朝に追われる身となり、奥州で藤原氏の裏切りに遭い、自害したのは有名な話です。

疑問が残るのは、源義経は兄と戦おうとしたのかということです。

平家を滅亡させて、当面は平和になったかと思われます。
しかし、兄の頼朝は力をつけた義経の謀反を恐れ、義経を討伐しようとします。
頼朝としては、この判断は仕方なかったと言えるでしょう。

平家討伐戦で、梶原景時という頼朝の家臣を、軍師として義経に同行させたのですが、義経は梶原景時の進言を全て退け、自らの計略を用いてことごとく勝ちました。
無視されたと同時に恥をかかされた梶原景時は、義経を恨み、鎌倉に帰った後、義経に謀反の疑いがあると、頼朝に諫言しました。

兄の頼朝がこれを信じたかどうかは分かりませんが、義経に二心がなかったとしても、義経を放っておくわけにはいかなかったと考えられます。
既に義経は、横暴を振るった平家を討伐した英雄となって、京では大人気となっており、さらに天皇から直接昇進を受けています。
本来であれば、官位については、兄の許可を得て昇進を受けるのが通常の手順なのかと思われますが、勝手に官位を受けた義経に、頼朝が怒りを抱くのは仕方なかったとも言えるでしょう。

平家討伐時に、頼朝が鎌倉にじっとしていたのは、何も弟に平家討伐を全てまかせて、自分は遊んでいたというわけではありません。
弟の義経が平家討伐に失敗した時に備え、兵力を整え、内政にも勤しんでいたのです。

ところが、義経は予想以上に頭もよく、統率力も抜群だったので、負けることなく平家を滅亡させてしまい、頼朝が置いていかれた形になってしまったのです。
このため、頼朝が焦りを感じたのも無理はないでしょう。

義経に謀反の心がなかったとしても、放っておくと日本が東西に二分される可能性があり、安心して鎌倉に幕府を開くことができないと考えたのかもしれません。
頼朝が義経を排除するのは、天下泰平のためにも仕方なかったことと思われます。

一方の義経の気持ちがどうだったかの問題ですが、義経はあくまで平家討伐が目的であり、兄と争う気は毛頭なかったのかもしれません。
しかし、兄の刺客による義経暗殺未遂があり、返り討ちにしたのですが、兄が自分を殺そうとしていると分かってから、後白河法皇に奏上して源頼朝追討の院宣を得ています。

このことから、義経に兄と戦う気があったと考えられていますが、兵を集めようとした時に、既に梶原景時の手が回っていたのか、なかなか兵が集まりませんでした。
京にいる後白河法皇は、このまま義経が負けてしまい、頼朝から迫害を受けることを恐れ、手のひらを返して、今度は源義経追討の院宣を頼朝に出しました。
この後、頼朝は数人の家来のみをつれて、京を脱出し、逃げに逃げて奥州にたどり着くことになります。

ただ、義経が本気で兄と戦う気があったのであれば、少数の兵でも京で挙兵すれば、十分に勝算があったはずだということです。
あれだけ少数の兵でもことごとく平家を打ち破った義経ですから、多少の兵力差があったとしても、頼朝の軍勢などにそう簡単に負けることはないはずです。

では、なぜ京を脱したかという疑問が残りますが、やはり源義経追討の院宣が大きいのではないかと思われます。
これは天皇や京の人々を敵に回すという、いわゆる逆賊にされたということになり、自分が朝敵になってしまったという思いがあったのかと思われます。

本気で戦おうと思えば、奥州の藤原氏の協力を得て、奥州で挙兵することもできたはずですが、それもしませんでした。
天下を乱すことを恐れたというのもあるかもしれませんが、やはり自分が朝敵になってしまったという思いが強かったのかと思います。

義経の行動を見れば、それは明白で、義経追討の院宣を出されるまでは、兄の討伐の準備を進めていましたが、義経追討の院宣が出されてからは、覇気を失ったように逃げる人生に転じています。
それだけ朝敵になるということがつらかったのかと思われます。

判官贔屓(ほうがんびいき。判官は義経の役職)という言葉もあるように、今でも源義経は英雄として語り継がれていますが、その人生は壮絶で悲しいものだったと言えるでしょう。

 

■徳川家康はいつ天下を意識したのか

話は戦国時代に移りますが、徳川家康が関ヶ原の戦いを制し、江戸幕府を開いたことで、戦国時代は幕を閉じました。
素朴な疑問ではありますが、徳川家康が天下人を意識したのはいつ頃だったのでしょうか?

織田信長が天下一統を意識したのは、天下布武を掲げた、岐阜城を占拠した時だと言われています。
岐阜城は、元々は稲葉山城という名前だったのですが、信長によって岐阜城に改名されました。

岐阜というのは、古代中国の周王朝の文王が岐山から天下平定したのを因んで名付けられたとされています。
ここで、天下布武、つまり天下に武を布くという旗を掲げて、天下一統を目指したというのは明確に分かっています。

豊臣秀吉が天下一統を意識したのは、やはり本能寺の変によって、信長とその長男の信忠が討たれた時かもしれません。
それまでは、信長の忠臣として懸命に働いていましたが、織田家の柱を失ったと知るや、織田家に対して謀反を起こしています。

もちろん、最初は織田家の再興と称して明智光秀を討っていますが、織田家への謀反が明確になったのは、清須会議の時と思われます。
この時、秀吉は、信長の次男信雄を推す柴田勝家と対立し、信忠の長男である幼い三法師を織田家当主として押し切り、実権を握りました。

その後の秀吉は、天下を意識するような戦略で、次々と、同盟、降伏勧告、合戦を行い、ついには天下を統一します。

ところで、徳川家康の場合はどうでしょうか。
徳川家康は、織田信長の同盟者で、本能寺の変の後、秀吉と対立するもすぐに和睦をして、結局は秀吉の一家臣のような扱いを受けています。
その頃は秀吉に信頼はされていましたが、国の大きさとしても大大名の一人といった感じで、天下人を意識したのがいつ頃かは不明です。

その後、北条家を討伐して関八州を徳川家康に与えられますが、祖国の三河国や戦で勝ち取った駿河などの国は没収されてしまい、家康も意気消沈したとされています。
ただ、私は、関八州を得た時こそ、家康が天下を意識した時ではないかと考えます。

以前にもこのサイトで述べていますが、関八州を得るということは、東日本の統治を任せられることにもなり、秀吉に次ぐ二番手の地位に就くも同然と考えられるからです。
確かに、関東は北条家が戦を繰り返したために荒れ果てていましたし、関東平野は湿原が多く、発展は難しい土地でした。
かつ、祖国や今まで戦で得た土地を失ったというショックは大きかったのは間違いないでしょう。

ただ、関八州というのは、北条や上杉が戦を繰り返して、意地でも欲しかった土地でもあります。
上杉が関東管領にこだわったのも、関八州を得るためだったと考えられます。

元々、室町時代に入ってから、東西を分割して統治するのが普通となっていて、関八州を統治しているものが東日本を統治してきたという経緯があります。
そのため、関八州を得るということは、東日本を統治を任されるということになり、西日本統治者に次ぐ二番手の地位になるということです。

関八州を得た家康は、事実上、天下二番目の地位に就いたということになり、さらに後継者がいない豊臣秀吉が死んだ後にどうなるかを考えたのは必然と言えるでしょう。

北条家討伐後、関八州が誰に与えられるかというのは、非常に重要な問題だったのです。
前にも書いた通り、最も有力だったのは、早くから秀吉と同盟していた上杉景勝だったのです。
上杉景勝は、名目上は上杉謙信から関東管領を継いでいますし、ずっと北条と関東を争っていた経緯がありますので、関八州は喉から手が出るほど欲しかったはずです。

ところが、秀吉は家康に関八州を与えました。
理由としては、やはり秀吉がそれだけ家康を信頼していたからでしょう。

もし、関八州が家康ではなく、上杉景勝に与えられていたら、歴史は大きく変わっていたと思われます。
それこそ、景勝が豊臣家を守って、江戸幕府など開かれていなかったかもしれないのです。

そのくらい、関八州への移封は大きいものだったのです。
家康が天下を意識したのは、もっと前かもしれませんが、関八州が天下人への足がかりとなったのは間違いないと言えます。

 



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