戦国一の知恵者は誰か

0 Comments

image
日本の戦国時代で、最も頭の良い人は誰かという点で、軍師だけでなく、全ての武将について考察してみたいと思います。

 

■織田信長

戦国で最も有名かもしれない織田信長ですが、戦でも政治においても天才的な能力を発揮しています。
戦においては、有名な桶狭間の戦いで、わずかな戦力で今川義元の大軍を打ち負かせたのを始め、長篠の戦いでは鉄砲の活用によって、武田騎馬隊を撃破したことも有名でしょう。

政治においては、楽市楽座や士農分離などを行い、国を発展させました。
外交でも、徳川家と結んで後顧の憂いを絶ったり、足利将軍を保護して権威をうまく利用したりしました。

こうした点を見ると、間違いなく頭の切れる人物ではありましたが、一方、性格の面では非常に難がありました。
その凶暴とも言える性格は、家臣や民衆を恐れさせ、民衆の反発や、家臣の謀反も相次いでいます。

比叡山の焼き討ちや、雑賀衆の皆殺しなど、逆らうものは全て殺すという方針は、人々に受け入れられるものではありませんでした。
明智光秀による本能寺の変も、信長のやり方に反発したという影響が強いと思われます。

性格なので、頭脳とは違うかもしれませんが、恐怖政治を敷くような人物を、頭の良い人物とするのは評価が難しいところです。
もっと言えば、民衆や家臣の気持ちが分からなかったのではないかとも言えます。

残念ながら、このマイナス点が大きく、最も頭の良い人物とは評価できないということになるでしょう。

 

■竹中半兵衛、黒田官兵衛

戦国時代の軍師として有名なのが、竹中半兵衛(本名は竹中重治)と黒田官兵衛(本名は黒田孝高。後の黒田如水)でしょう。
この二人は、後の豊臣秀吉に仕え、二人が軍師を勤めていることから両兵衛と言われました。

竹中半兵衛で有名なエピソードが、斎藤家家臣時代の稲葉山城の奪取でしょう。
主君の斎藤龍興が政治に関心がなく、遊んでばかりのため、家臣である竹中半兵衛が、わずか数人の部下のみで、稲葉山城を占拠します。
主君の戒めのために行ったので、すぐに返還しましたが、これを知った秀吉は、竹中半兵衛を説得して部下にしました。

その後の秀吉の軍師として活躍しますが、36歳という若さで病死してしまうため、残念ながら不完全燃焼と言えます。

黒田官兵衛は、最初、小寺という大名に仕えていて、その後秀吉の軍師となり、様々な活躍をします。
豊臣秀吉が病死して関ヶ原の戦いが起こると、徳川につき、さらに活躍しました。

官兵衛は本当に頭の良い人物で、様々な活躍をしましたが、これはすごいと言うようなエピソードがなく、戦国一と言えるのかどうかは微妙なところです。

 

■真田昌幸

忘れてはならないのが、真田昌幸です。
彼の次男の真田幸村(本名は真田信繁)の方が有名ですが、頭脳で言えば、父の昌幸の方が優秀でしょう。

真田昌幸は表裏比興(ひょうりひきょう)の者と評されます。
表裏比興というのは、おもてうらがあるという意味で、表では協力すると言っていても、裏では何を企んでいるのか分からないということです。

真田家は武田信玄に仕えていましたが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、徳川、北条、羽柴などとうまく外交で生き残ります。
ところが、徳川と北条の外交の揉め事から、徳川と敵対することになり、上田城で徳川の大軍と戦うのですが、圧倒的な兵力差を覆し、真田昌幸が勝利します。

関ヶ原で西軍についた真田家は、また徳川軍3万8千という大軍に上田城を攻められますが、わずか3千の兵のみで再びこれを撃退しました。
籠城戦しかしていないので、本当に戦上手かどうかは分かりませんが、外交面でも頭の良さを発揮していますし、計り知れない頭脳と言えるでしょう。

昌幸の父、真田幸隆も武田信玄が落とせなかった城を、調略によって奪い取るような活躍をしていますし、昌幸の次男の真田幸村の大阪城戦の活躍も有名です。
そのため、真田一族は小説やドラマなどで取り上げられることが多く、人気も高いのでしょう。

ただ、やはり主な戦に関しては、上田城戦の二回しかなく、こちらも不完全燃焼と言えます。
真田昌幸が大阪城戦まで生きていれば、徳川もどうなっていたかは分からないというほどの人物であるだけに、大阪城戦の前に亡くなってしまったのは残念です。

 

■豊臣秀吉

豊臣秀吉はご存知の通り、農民出身の天下人で、その頭脳で出世街道を登りつめたと言えるでしょう。
最初は織田信長に仕え、すぐに頭角を現し、城主、軍団長となり、さらに本能寺の変後は、独立して大名となって、天下人へ突き進みました。

エピソードも色々と残っていて、美濃の斎藤家攻略の際は、敵拠点の近くに城を築くという難題を受け、川上である程度、木材を作ってから川に流して、現地で組み立て、城を完成させたというものがあります。
また、別の築城の際には、家臣を何グループかに分けて、最も早く作業を終えたグループに、大量の褒美を与えると言って競わせたり、北条家の小田原城攻略では、森の中で城を築き、完成後、夜のうちに木を切り倒して一夜で城を築いたように見せかけ、北条を降伏させるという荒業も使っています。

外交面では、なるべく戦を行わずに、説得で敵国を屈服させることを心掛け、平和的に天下統一に導いている点が、織田信長のやり方と大きく異なっています。
本能寺の変後の、徳川家康との小牧長久手の戦いでは、敗北するものの、織田信雄と和睦することによって、徳川の大義名分を無くさせるという方法で、徳川家康を味方につけるという戦術を使っています。

内政面でも、刀狩令、太閤検地、惣無事令など、平和に導くために様々な政策を実施しています。

晩年は朝鮮出兵をするなど、少し暴走しましたが、これも後継者のいなかった秀吉が、自分の死後を心配して、大名たちの共通の敵を作ることで、結束を強めようとしたとも考えられます。
総合的に見て、戦国一と言えるほどの頭脳と言っても良いと私は思います。

 

■その他の武将

他にも直江兼続、山本勘助、徳川家康、上杉謙信、毛利元就、小早川隆景など、頭の良い人物は数々いますが、戦国一と言えるかどうかは難しいところです。

上杉謙信は、戦の天才ではありましたが、内政や外交は優れていませんでした。
上杉景勝の軍師の直江兼続も、かなり頭の良い人物ではありましたが、秀吉を超えるほどとは言えませんし、山本勘助も武田信玄の軍師として活躍しましたが、残念ながら上杉謙信の前に敗れています。

徳川家康や武田信玄に関しては、努力家タイプと言えます。
幼少の頃から勉学を重ね、地道に力を発揮してきましたが、才能という点では他の武将に勝てないところもあったと言えます。

毛利元就、小早川隆景親子も戦略、戦術に優れた武将ですが、結果や実績は秀吉には劣ると思われます。

 
これらを考慮しますと、結局誰が一番かと言えば、豊臣秀吉が戦国一の知恵者ではないかと私は思います。
合戦、外交、政治面、実績などのトータルで考えると、豊臣秀吉が最も相応しいと思われます。

もちろん、活躍の場がなかったり、若くして死んでしまったなど、不完全燃焼の武将が多々いますので、一概にこの人が一番とは言えないのですが、あくまで私個人の意見として述べさせていただきたいと思います。

 



関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを投稿する

メールアドレスが公開されることはありません。メールアドレスを入力すると、返信があった時に通知されます。
※が付いている欄は必須項目です。

※コメント送信前に以下をご確認ください。

コメントは承認制になっております。
どんどんお気軽にコメントを投稿していただいても構いませんが、記事の内容と関係ないものは掲載されませんので、ご注意ください。
逆に、記事の内容に沿っていれば、どんな批判的なコメントでも受け入れさせていただきます。

私自身、未熟なことは重々承知しておりますので、批判的なご意見を書き込んでいただくのは大いに結構なのですが、どこをどう改善すれば良いか分からないコメントも多いため、できましたらどの部分がどういった理由でダメなのかや、改善策も述べていただけますと幸いです。