歴史の面白い謎9

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今回は関ヶ原の戦いを中心に、歴史の面白い謎をご紹介したいと思います。

 

■石田三成はなぜ家康と対立したのか

五奉行の一人である石田三成と、五大老の徳川家康は、最初から仲が悪く、豊臣秀吉の死後、すぐに対立したというイメージの方も多いかと思いますが、実は最初から仲が悪かったわけではありません。
それどころか、石田三成は当初、家康派だったとも言われています。

元々、三成は秀吉に恩を受けて出世した経緯があり、秀吉の遺言を守り、豊臣家を守ることが三成の思いであったと思われます。
そのため、五大老筆頭である家康と協力して豊臣家の天下を守ろうと考えていたようです。

しかし、朝鮮出兵などの三成の対応が、加藤清正、福島正則、黒田長政ら武官の不満を募り、前田利家の死後にその不満が爆発します。
彼らは石田三成の屋敷を兵で取り囲み、一触即発の事態に陥ってしまいました。

その仲裁に入ったのが、徳川家康です。
家康は、石田三成の五奉行を解任し、佐和山城蟄居を求める代わりに、加藤清正らに武装解除を命じ、騒ぎを沈めました。

命を救われた形になった石田三成は、家康に敵対する理由がないように思えます。
では、なぜ石田三成は、家康と対立し、上杉征伐の時に家康に反旗を翻したのでしょうか。

理由はいくつかあると思いますが、主な理由はやはり、家康が権力を強めることを恐れたからでしょう。
上杉征伐が成功すれば、間違いなく家康の権力は強くなり、豊臣家の存続が危うくなります。
豊臣家を守るためには、家康の権力を弱める必要がありますが、政治的にそれを行うことが難しいため、やはり合戦で家康を排除する方が良いということになったのかと思います。

また、石田三成は家康によって五奉行を解任されましたが、それを恨んだ可能性もあります。

もう一つは、自分の息子の行く末を心配したのかもしれません。
せっかく五奉行という地位を得たのに、解任されてしまったため、息子の石田重家らの将来はどうなるか分かったものではありません。
そのために、家康を排除して五奉行に返り咲いて、息子の将来も安泰なものにするという狙いがあったのかもしれません。

上杉征伐は、その最大のチャンスであったため、上杉景勝とは何も連携はなくとも、家康を挟撃するために、この時に決起したと思われます。

 

■上杉景勝はなぜ謀反を起こしたのか

関ヶ原の戦いのもう一つの戦いが、上杉征伐です。
この戦いは、基本的に関ヶ原の戦いとは全くの別ものです。

石田三成と上杉景勝の間に、予め計画があって家康を挟撃したわけではありません。
石田三成にとって、上杉征伐に向かった家康の背後を襲う最大の好機だったため、結果的に挟撃になっただけです。

つまり、上杉景勝は三成と連携して家康を挟撃しようとしたのではなく、最初から豊臣家に対して謀反を起こしたのです。
あまり知られていませんが、上杉景勝は豊臣家に対して、かなりの恨みを持っていたと思われます。

本能寺の変後、羽柴秀吉は柴田勝家を撃破するため、上杉景勝と同盟を結びます。
かなり早い段階から秀吉と景勝は親密な関係となり、その後は一度も戦うことはありませんでした。

秀吉が北条家を滅ぼした後、関八州を誰が治めるかとなった時、かなり多くの人が、上杉景勝がその地位に就くだろうと予想していました。

景勝の養父である上杉謙信は、関東管領である上杉家を継いでいます。
関東管領という職は、東国を治める足利将軍のナンバー2というポジションです。
東国を治める足利将軍も名前だけの存在となっていますが、この関東管領を巡って上杉と北条は長い間争ってきました。

北条家が滅んだ後は、当然上杉謙信を継いだ景勝が関八州を治めるものと思っていたのですが、それを与えられたのは徳川家康でした。
徳川家康は、秀吉の妹と結婚させられていたため、秀吉の義理の弟になっていたという理由が大きいようです。

さらに、秀吉が死ぬ直前、上杉景勝はなぜか越後から会津に移封されています。
景勝は一度は断りますが、命令に逆らえず、従わざるを得ませんでした。

石高は増えるので、実質加増ではあるのですが、やはり本領の越後を離れるのは、かなり抵抗があったようですし、民衆も残念がっていたようです。
秀吉の狙いとしては、自分の死後に伊達政宗の謀反を景勝に抑えさせるためと考えられています。

景勝と秀吉とはかなり早い段階から同盟を結んでいたにも関わらず、これらの対応に不満があり、秀吉の死後に謀反を起こしたと思われるのです。
上杉景勝謀反の目的は、越後の旧領地回復と、関東乱入です。

豊臣家に謀反を起こせば、反豊臣はもちろん、反徳川などの大名らの決起も促せるという算段もあったかと思います。
現に、最上義光や伊達政宗も、当初は上杉景勝に味方する予定でした。

最上義光も伊達政宗も、豊臣秀吉によって大幅に減封された大名で、豊臣家に恨みを抱いていたのです。
ただ、徳川家康に付いて、家康の天下となっても、加増が期待できるために、上杉を見限ったようです。

上杉景勝は関ヶ原の戦いで西軍敗北の報を聞いても、半年くらいは最上と伊達と戦っていたのですが、それ以上の反徳川の決起を促すことができず、家康に降伏することになります。

 

■石田三成はなぜ関ヶ原に出たのか

有名な関ヶ原の戦いですが、石田三成がなぜ関ヶ原に向かったのかは謎です。

と言うのも、石田三成は当初、関ヶ原の東にある大垣城に籠城し、東軍を迎え撃つ算段でした。
籠城している間に西からの毛利輝元の援軍が来れば、かなりの勝機があると踏んでいたようです。

石田三成が急遽作戦を変更し、大垣城に五千ほどの兵を残して、残りの全軍を関ヶ原に向かわせたのですが、なぜそうしたのかはかなりの謎です。

いくつか説があるのですが、一つは家康が大垣城を無視して、遥か西の佐和山城を攻めるという噂を流したことです。
佐和山城は石田三成の本拠地で、ここを落とされると西軍にとってもかなりの痛手となります。
これを阻止するために、関ヶ原に先回りしたというものです。

ただ、これだけだと、仮に三成が噂を信じたとしても、西の毛利輝元の軍と三成の軍で東軍を挟撃できるため、先回りする意味がないように思えます。
それに、家康の軍が通り過ぎたところを見計らって、後ろから攻撃しても良いはずですが、わざわざ城を捨て、先回りして正面衝突するメリットはありません。

もう一つの説は、松尾山に陣取った小早川秀秋を成敗するためというものです。
小早川秀秋は、三成と仲が悪く、東軍寝返りも当初から噂されていました。
さらに、松尾山は大垣城の西に位置し、もしここで小早川秀秋が反旗を翻せば、大垣城に籠城していても不利になるという懸念がありました。

この説の方が有力ですし、そのような記録も残っているようですが、それでも私には疑問が残ります。
小早川秀秋を征伐するのに、大垣城にわずかな兵を残して、ほぼ全軍を出すようなことをするのかということです。

大垣城は堅固な城だったようですし、小早川勢だけを排除できれば、引き続き籠城戦に持ち込めたはずです。
そのため、ほぼ全軍を差し向ける必要はないのではないかと思うのです。
小早川秀秋と戦っている間に、手薄となった大垣城が攻め落とされてしまったら、それこそ窮地に陥ります。

それに、大垣城と松尾山の小早川秀秋との間には、西軍の毛利秀元らが陣取っていたので、小早川征伐は彼らに頼んでも良かったはずです。
それを毛利秀元らにも伝えず、三成たちの本隊で小早川秀秋を征伐しに行ったとは考えにくいのです。

この謎は非常に難しく、私も悩みました。
私も三成の気持ちになって一つの推測をしたのですが、三成は自ら伏兵となって東軍を奇襲しようとしたのではないかと考えました。

つまり前者の説の、家康が佐和山城に向かうという噂を流して、その噂を信じたところまでは同じなのですが、東軍が通るであろう関ヶ原付近で伏兵となって待ち伏せ、全軍をもって奇襲をかけようとしたのではないかということです。
伏兵になるのであれば、毛利秀元に使者を出さなかったのは、東軍に使者を捕まえられて情報が漏れるのを恐れたためと説明ができます。

ところが、家康は伊賀の忍びをよく使っていましたので、三成が夜に大垣城から大軍を出したのは家康には筒抜けになっていました。
石田三成が伏兵の準備をしていたところに、逆に家康に奇襲されたのではないかと思うのです。

陣形の図を見ても、それなら辻褄が合うように思えます。
私の考えが正しいかどうかは分かりませんが、多くの書物は謎のままになっています。
もし、皆さまにご意見があれば、ぜひお伺いしたいところですので、コメントをお寄せいただければと思います。

 

■徳川秀忠はなぜ関ヶ原に間に合わなかったのか

有名な徳川秀忠の関ヶ原遅参ですが、通説では真田昌幸の上田城に釘付けにされたせいで、関ヶ原の戦いに間に合わなかったとされています。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。

まず、徳川秀忠はあまり好戦的な人物ではありませんでした。
どちらかと言うと、温厚な性格で、武芸や知略は優れているとは言えない人物だったようです。

秀忠は三男でしたが、長男は織田信長に裏切りを疑われて殺され、次男は他家を継いでいたので三男の秀忠が後継ぎになりました。
他の兄弟は優秀な人が多かったのですが、秀忠は残念ながら優秀とは言えませんでした。
しかし、順番としてやむを得ず後継ぎになったような人物です。

上杉征伐の際、父の家康と共に秀忠も一軍を率いて参戦します。
そこに石田三成決起の報が届いたため、家康は西国対応、秀忠は引き続き上杉征伐を任されました。

最上義光が東軍に寝返ったため、上杉景勝は最上軍対応に追われ、上杉景勝による関東への乱入は当面の間、心配はなくなりました。
そこで家康は、秀忠に真田昌幸討伐を命じたのです。

前にもこのサイトで書きましたが、徳川秀忠は最初から関ヶ原の戦いに向かったのではありません。
西軍に寝返った真田昌幸討伐のために、秀忠を差し向けたのです。

そこで寡兵である真田軍に上田城戦で大苦戦したのは間違いないのですが、ここで家康から関ヶ原へ来いという命令を受けます。
西軍の兵の多さと、西からの毛利輝元の援軍を恐れた家康は、秀忠に上杉征伐、真田征伐を中止させ、西国対応の援軍を要請したのです。

秀忠はすぐに関ヶ原に向かおうとせず、上田城攻めを続けたために関ヶ原に遅参したというのが通説なのですか、実際はすぐに秀忠は関ヶ原に向かったようです。
あまり好戦的でない秀忠は、どうしても上田城を攻め落としたいという考えはなく、家康の命令を忠実に実行していただけのようなのです。

ただ、そこから東山道を行く道のりは、山が険しく行軍に時間がかかってしまったのです。
そのため、遅くなってしまったのは事実ですが、秀忠は上田城に釘付けになっていたわけではない可能性が高いです。
関ヶ原の戦いが、わずか1日で決着がついてしまったため、秀忠の遅参が目立ってしまいますが、命令を忠実に守った秀忠にとっては、かなりの不運だったと言えるでしょう。

秀忠が真田嫌いというのは本当かもしれませんが、秀忠の性格を考えれば、何とか父親に気に入られて、後継ぎの座を他の兄弟に奪われないように必死だったのかもしれません。

 



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