歴史の面白い謎8

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前回の引き続き、歴史の面白い謎を少しご紹介させていただこうと思います。

 

■劉備は劉邦の子孫なのか

三国志時代の蜀の初代皇帝劉備は、漢帝国を築いた劉邦の子孫と言われています。
正確には劉備本人がそう名乗っているのであり、いわゆる自称劉邦の子孫ということになります。

劉備としては、漢王朝の復興を目標としており、漢の帝による統治に戻そうとしてきたのです。
同じ劉邦の子孫として、その補佐をしようと若い頃は兵を率いて戦ってきました。

しかし、曹操の子、曹丕が漢の帝を廃し、自ら魏の帝の位に就いたため、漢王朝は滅亡しました。
そのため、劉邦の子孫である劉備が、魏の帝を認めず、自ら蜀の帝の座に就いたというわけです。

劉邦の子孫であるということが、自称にすぎないと書きましたが、当時は言ったもの勝ちな部分もありました。
劉邦といっても、三国志時代から四百年も前になりますし、劉邦の子孫と言っても何千人となっており、その全てを把握できているわけではなかったのです。

劉備は庶民出身なので、劉邦の子孫だったらもっと裕福なはずという意見もありますが、これは長男でない者や、女性側の子孫もありますので、徐々に位を落としていって、庶民になっている子孫がいてもおかしくはありません。

劉備が漢の帝に拝謁した時、家系図があったという話もありますが、これも創作である三国志演義の話ですし、家系図くらいは少し調べれば偽造も難しくないでしょう。

要するに、劉備が本当に劉邦の子孫であったのかということは誰にも分からないということです。
本人すら、姓は同じものの、自分が確実に劉邦の子孫であるという確信はなかったのかもしれません。

もし、劉邦の血を引いていなかったとしたら、三国志の話も見方が少し変わってきてしまいますが、劉備が仁徳や義を重んじる素晴らしい人物だったことに変わりはなく、劉邦の子孫かどうかはあまり重要ではないのかもしれません。

 

■天下三分の計

劉備が荊州にいた頃、諸葛亮を登用するため、三度諸葛亮の家を訪れます。
有名な三顧の礼ですが、諸葛亮が劉備に会った時、諸葛亮は天下三分の計を説いたと言われています。

しかし本当は、諸葛亮は天下三分の計を説いたわけではありません。
最終目標はあくまで天下統一であり、天下三分はその過程にすぎないのです。

諸葛亮が説いた戦略は次のようなものです。
曹操の魏は強国なので後回しとし、呉も孫堅、孫策、孫権の三代に渡る強固な基盤があるので、容易に攻略できないのでこれも後回しとします。
なので、まず軟弱な劉表を攻撃して荊州を抑え、次に暗愚な劉璋の治める益州を攻略して、魏や呉と対抗できる国を作ることを目標とします。
その後、呉と結んで魏を攻め滅ぼし、最後に呉を打ち破って天下を統一するという壮大な計画だったのです。

ただ、実際に事を運ぼうとすると、劉備の義理堅い性格が邪魔をしてうまくいきませんでした。
最初の攻撃目標である劉表は、姓が同じ「劉」で、劉邦の子孫という意味で親族となりますし、劉表は劉備が荊州に逃げてきた時に匿ってくれたという恩もあり、劉備は攻撃に反対しました。
その結果、曹操軍が荊州に攻めてきて逃げることになってしまうのです。

何とか赤壁の戦いで曹操軍を追い返し、荊州を強引に手に入れましたが、次の益州攻略も、同族である劉璋が相手となってしまうので、最初は劉備は攻撃に反対しました。
周囲の家臣が必死に説得し、何とか益州を攻略しましたが、その後、今度は呉の裏切りによって、荊州を守っていた関羽が殺されてしまいます。

関羽は劉備にとって、生死を共にすると誓った大切な義兄弟で、どうしても呉を許すことができず、呉に大軍を差し向けます。
家臣たちは、呉との同盟を取り戻して、魏を先に討つべきと止めましたが、劉備は結局それを聞かずに、呉を攻撃しました。

その結果、夷陵の戦いに敗れて、劉備は死期を早めて死んでしまいました。
この大敗はそう簡単に修復できず、結局三国鼎立時代が長引いてしまったのです。

全て諸葛亮の言う通りに進めていれば、劉備は天下統一することができたかもしれませんが、劉備の義理堅い性格が勝ってしまい、うまくいかなかったと言えるでしょう。
しかし、劉備の魅力もそこにあり、だからこそ諸葛亮も劉備に生涯を捧げたとも言えます。
三国志の魅力もそこにあると言えるかと思います。

 

■地名の由来

地名というのは、元々土地に名前が付いていないが、名前がないと不便なので、誰かが名づけていつの間にかその地名が定着するというのが普通です。
戦場になったような場所も、後世に伝えるためにも、合戦の名前が必要ですが、地名があればその土地の名称が付く場合が多いです。
しかし、合戦があった場所に地名がない場合は、先に合戦の名称が付き、それをそのまま土地の名前にする場合もあったかと思います。

例えば、三国志の赤壁の戦いは、曹操軍の船団が火計に沈められ、遠くで見た人は、炎が赤い壁のようだったという話から、赤壁の戦いと名付けられた可能性が高いです。
そう考えると、呉の大都督である周瑜が、
「赤壁の地にて曹操軍を迎え撃つ」
というセリフをドラマか何かで聞いたことがありますが、これは当時、まだ赤壁という地名が存在していなかった可能性があるので、間違いかもしれないのです。

また、劉備軍が益州の劉璋攻略の際、副軍師である龐統が、間道を通る際、
「ここは何という地名か」
と道案内人に尋ねると、
「落鳳坡というところです」
と応え、縁起が悪いと思ったとされています。

龐統は鳳雛(ほうすう。鳳凰の雛)と言われたことがあり、その鳳凰が落ちるとは縁起の悪い地名だという解釈です。
その後、龐統は伏兵に遭い、本当に死んでしまうのですが、これもどちらが先なのかは分かりません。

つまり、龐統がそこで死んでしまったから、落鳳坡と名付けられた可能性もあるということです。
上記のセリフは、三国志演義の話で、三国志演義というのは、三国志時代からだいぶ後に書かれたものなのです。
三国志演義の作者である羅貫中が、落鳳坡と名付けられた地名から、知ってか知らずかそのような創作をした可能性があるということです。

いずれにしても、お話の魅力が変わるわけではありませんが、地名の由来を考えるのも面白いものです。

 

■中国大返しの真相

日本の戦国時代の話に変わりますが、このサイトでも何度か本能寺の変の真相を検証してきました。
本能寺の変の後の、秀吉の中国大返しについて、再度検証してみたいと思います。

このサイトで、羽柴秀吉が明智光秀をそそのかしたのではないかと一度書きましたが、明智光秀は織田信長討伐後、すぐさま羽柴秀吉の居城である長浜城も攻撃しています。
秀吉が、光秀が謀反を起こせば味方すると言ってそそのかしたのであれば、光秀が長浜城を攻撃するのはおかしいのではないかという疑惑が出てきました。

確かにその通りで、秀吉が味方すると約束していれば、光秀が長浜城を攻撃するのは辻褄が合いません。
秀吉が光秀に、「長浜城を攻撃すれば、降伏するように長浜城主に言っておく」と言っておき、長浜城主が降伏しなかったので、明智光秀が攻撃したかもしれませんが、秀吉を味方にするつもりだったならそれもおかしい行動になってしまうかと思います。

ただ、秀吉が光秀の謀反をそそのかしたのでないのであれば、今度は秀吉の中国からの大返しの謎が復活してしまいます。
わずか7日で毛利と和睦してから、天王山まで引き返して光秀軍を打ち破ったのは、時間的にかなり厳しいということです。

もし、秀吉が光秀の謀反を知っていたのであれば、本拠地の姫路城に精鋭兵を残しておき、中国地方から自分と家臣のみが先に姫路城に戻り、姫路城の待機していた兵を出撃させれば、時間的に可能ではあるのですが、中国にいた兵をそのまま光秀と戦わせたのであれば、時間的にも体力的にもかなり厳しいのです。

もしかしたら、秀吉には、信長の次男の信雄らの援軍もあって、兵も多かったという説もあるので、自分の兵よりも、あまり疲れていない兵を主に使ったのかもしれません。
もしそうだとするなら、秀吉の活躍で光秀を破ったというのが少し疑問が生じてしまいますが、頭の良い秀吉が、その辺をうまくごまかして宣伝したのかもしれません。

秀吉には、黒田官兵衛らの頭の良い軍師も付いていましたし、秀吉自身も頭の良い人物だったので、信長と長男の信忠が討たれたと聞いてから、天下を意識した可能性は十分にあります。
そのために、色々と裏で画策し、先手先手で手を回しておいて織田家乗っ取りも実現できたのでしょう。

中国大返しについては、上記の可能性が最も高いのかもしれません。
つまり、秀吉は本当に光秀の謀反を知らず、本能寺の変が起きた後、すぐさま毛利と和睦し、兵の鎧を捨てさせてでも走らせ、他の軍と合流して明智軍と対峙し、疲れていない兵をメインとして戦わせて勝ったということです。

真相は闇の中ではありますが、そういった謎を追究していくのも面白いかと思いますので、興味のある方はご自分でも調べていただければと思います。

 



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