歴史の計略に学ぶ5
■孫武姫兵を御す
孫子の兵法書を書いたとされる孫武は、今から2500年以上も前、呉という国に仕えていました。
呉王は孫武の才を図るため、戯れに美女を二百人ほど集め、
「先生の才覚はかねがねお伺いしております。ここに宮中の婦人を集めたのですが、軍勢として戦うことができるよう、統制することができましょうか?」
と問うと、
「承知いたしました」
と言い、孫武は早速武器などを持たせて準備させます。
婦人の中から二人の隊長を任命し、方向転換の合図を説明しました。
「右」
と叫んで太鼓を叩き、右を向くように命じましたが、みんな笑って指示に従おうとしません。
婦人たちはこれが戯れと聞いていたので、命令を聞こうとはしなかったのです。
何度かこれを繰り返しましたが、婦人たちは笑うばかりで、一向に従いません。
孫武は
「命令が明確であるのに、指示に従わないのは指揮官の罪だ」
と言い、任命した隊長二人を斬首しようとしました。
呉王はこれが戯れであることを説明し、斬首を止めようとしましたが、孫武は
「私は既に軍の指揮を任された身です。将として任を受けた以上、陣中においては王の命令であっても従えない時があります」
と言って、隊長二人を斬首の刑に処しました。
孫武が新たに隊長を任命し、同様に指示訓練を行うと、今度は誰一人笑うことなく、命令に従うようになりました。
孫武は
「兵の統制は完了しました。王の命とあれば、例え火の中でも進んで行くでしょう」
と呉王に報告しました。
斬首された隊長は、呉王のお気に入りの美女だったのですが、呉王は孫武の才を認め、この後も重用したということです。
孫氏の兵法書を書いた孫武は、書いた本人も優れた武将だったようで、他にも逸話があります。
ただ、孫子の兵法書は孫武が書き、孫武の子孫である孫臏が後を継いで完成させたとされますが、事実はどうなのかも分かっていないようです。
何しろ2500年も前の話なので、はっきりしたことが分からず、孫武に関しては、実在したかどうかさえも議論されているようです。
■孫臏の以逸待労の計
その孫臏は、中国戦国時代の斉の軍師でした。
以前このサイトでも紹介した、囲魏救趙策で魏軍を打ち破った13年後、今度は魏が韓という国を攻め、斉軍は韓を救うために魏に出撃します。
しかし、今度は魏軍がよく守り抜き、韓軍も撃破しました。
斉軍も撤退することになったのですが、魏軍は追撃をかけてきます。
そこで孫臏は撤退しつつも、策を弄します。
撤退しながら、陣内の竈(かまど)の数を十万、翌日は半分の五万、さらに次の日はその半分と、徐々に減らしていったのです。
これを見た追撃する魏軍は、
「敵は戦意を喪失し、兵士がどんどん逃げているようだ」
と思い、一気に殲滅するため、騎兵のみを先に走らせました。
孫臏は馬陵という場所に伏兵を置いて、魏軍を待ち伏せしました。
魏軍は騎兵と歩兵がバラバラになって隊列が乱れていたところに、伏兵によって側面から攻撃されることになり、大混乱に陥りました。
魏軍の総大将は乱戦の中、自害をして、斉軍は大勝利を収めたとのことです。
以逸待労の計というのは、しっかりと守りを固めて、敵の疲れを待って劣勢から優勢に転じるという策です。
この竈の話は、逆に竈を徐々に増やして、こちらを軍が増えているように見せかけ、敵からの攻撃を回避したという策もあります。
また、孫子の兵法書の、「孫子」ですが、子というのは先生という意味があり、孫先生の兵法書となります。
この孫子は孫武と孫臏を指しているという説が有力なのですが、真実は謎のままです。
ただ、孫子の兵法書は非常に優れた兵法書で、現代でも考え方として役に立つ書物です。
興味があれば、ぜひ皆さんにも読んでいただきたいと思います。
■諸葛亮の七縱七禽
三国志時代の話ですが、蜀を建国した劉備が死に、劉禅が後を継ぐと、南方異民族が反乱を起こします。
後顧の憂いを断つため、蜀の軍師諸葛亮は大軍を率いて南方へ進軍しました。
南方異民族に限らず、各地方の異民族は昔から度々侵略や略奪を繰り返し、全くどの軍にも従わないという厄介な存在でした。
諸葛亮は、南方異民族を味方につけるべく、異民族の王の心を攻めるという懐柔策を取りました。
南方異民族を率いる王は猛獲という人物で、最初の戦いでは猛獲が突出して奇襲をかけましたが、諸葛亮に動きを読まれ、あっさりと捕まってしまいます。
諸葛亮は猛獲に臣従してほしいと要求しますが、猛獲は拒否します。
猛獲が
「先ほどは蜀軍の陣立てが分からなかったから不覚を取った。陣立てが分かったからには、次は負けることはない」
と言ったので、諸葛亮は猛獲を許し、解放しました。
次の戦でも諸葛亮が勝ち、猛獲が捕らわれますが、また解放されます。
猛獲も他の王たちと組んであの手この手で攻めますが、諸葛亮がことごとく勝ち、結局諸葛亮は計七回も猛獲を捕え、七回も解放したのです。
七度目の戦いでは、異民族の籐甲鎧という弓矢を通さない鎧を破るために、敵を火計にしずめます。
諸葛亮は、異民族を味方につけるために、なるべく敵の損害も抑えたかったのですが、この鎧を打ち破るためにやむを得ず火計を使ったために、異民族の被害が甚大となってしまい、諸葛亮自身も涙を流したと言われています。
七度目に猛獲を放す時は、諸葛亮は申し訳なさで会おうとせず、使者に「解放するので、また戦の準備をするように」と伝えただけでしたが、
「七度捕えて七度放つとは聞いたことがない」
と猛獲は言い、心から諸葛亮に屈服したということです。
この後、南方異民族は蜀に二度と背くことはなかったということですが、七度捕えて七度放つというのは、さすがに三国志演義の作り話の可能性は高いです。
ただ、南方異民族を屈服させたのは事実であり、「捕らえるためには、しばらく放つ」という意味の「欲擒姑縦(よくきんこしょう)」という計略が兵法三十六計の一つにあり、これを使用した可能性もあるかと思います。
■泣いて馬謖を斬る
後顧の憂いを断った蜀の軍師諸葛亮は、魏を討伐するために、北に軍を進めます。
諸葛亮は天水、安定、南安の三郡を勝ち取り、蜀は勢いに乗ります。
事態を重く見た魏は、張郃という歴戦の猛将を総大将として進軍させます。
魏の援軍が来ると知った諸葛亮は、この重要な街亭という場所の守備の人選に悩みます。
馬謖という諸葛亮の弟子が強く志願したため、
「山の上には陣をはらず、山道に布陣するように」
と命令し、軍を預けました。
馬謖はとても優れた人物でしたが、それゆえに、
「孫子の兵法にも高いところに陣をはった方が有利になるとある」
と言って自分の方が諸葛亮よりも正しいとして、軍令を無視して山の上に陣を構えてしまいます。
副将の王平は、軍令に従うべきだと反対しますが、馬謖は聞かず、王平は少数の兵だけを離脱させて、軍令通り山道に布陣します。
魏軍の張郃は、馬謖の軍を包囲するように、山の周りに布陣しました。
これにより、馬謖の軍は水の補給を絶たれ、戦意を喪失してしまいます。
山の上から攻撃をかけても、魏軍の火計などにより、攻めきれずに窮地に陥ってしまいます。
そこへ、山道に布陣していた王平が援軍にかけつけ、なんとか馬謖を救出し、撤退したのです。
魏討伐の重要拠点を失った蜀軍は、やむを得ず蜀へ撤退することにしました。
もし、街亭で勝利を収めていれば、魏の滅亡も遠くないほどの大チャンスだったのですが、それを不意にしたことになります。
蜀に戻った諸葛亮は、馬謖を責め、斬首を命じました。
周囲にいた将は驚き、みんな止めました。
「蜀には人材が少なく、馬謖は優れた人物です。馬謖を斬ることは蜀の大きな損失になります」
「馬謖は丞相(じょうしょう。諸葛亮の地位)の愛弟子です。どうかご慈悲を」
「馬謖の失敗はこれが初めてです。せめてもう一度機会を与えてみてはどうでしょうか」
しかし、諸葛亮は、
「確かにその通りだが、ここで馬謖を許してしまっては、他のものにも示しがつかない」
と言い、涙を流して斬首を言い渡しました。
また諸葛亮は、今回の過失は人選を誤った自分にもあるとして、自ら丞相の身分から降格させました。
諸葛亮は、今後このような軍令違反をするものを防ぐためにも、大切な愛弟子を斬ったと考えられています。
例え身内であったとしても、身内であるという理由で許すことはできず、軍令違反は斬首ということを徹底させたということです。
泣いて馬謖を斬るという故事は、私たちにも色々なことを考えさせられます。
諸葛亮が蜀の損失となってでも守りたかった軍律の重さというもの感じずにはいられません。
諸葛亮は自分の頭の良さを知っており、自分の軍令通りにしていれば必ず勝てるという思いがあり、今後の軍令違反を無くすために馬謖を斬ったと考えられます。
この故事は、本当に現代にも印象の強いものとして残っています。