戦国時代の背景3

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前回に続き、日本の戦国時代の背景について、少しご紹介できれぱと思います。

 

■大名は前線で戦ったのか

ドラマやゲームなどで、大名が先頭に立って合戦に挑むシーンがありますが、実際の戦国時代で大名が前線で戦うということはまずありません。

と言いますのも、大名であれば当然、その戦の総大将となり、もし総大将が敵に倒されてしまったら、その戦は負けになってしまうからです。
総大将が討たれれば、副将が総大将の代わりとなって戦を続けることも不可能ではないですが、やはり士気が大きく下がりますし、兵士は混乱に陥って逃げ出したりしますので、戦を続けるのは困難でしょう。

そういった理由で、武力に自信のある大名であっても、前線で戦うことはあまりありません。
大名は後方の陣で戦術を考えたり、各部隊に指示したりするのが普通です。

もちろん、地方の豪族であったり、大名配下の一武将であれば、先頭に立って戦をすることは当然あります。
また、味方が少数で大軍に挑まなければならない場合など、大名が先頭に立って士気を上げるということもありましたし、大名クラスであっても、多数の大名を率いるような天下人が総大将の場合、大名が前線に立つこともあります。

ただ、そういった場合も部隊長が討たれてしまったら、その部隊は総崩れとなりますので、部隊長は後ろで指揮するケースが多かったようです。

平安・鎌倉時代辺りの源平合戦の頃は、一騎打ちが主流だったという説もあります。
もちろん総大将でありませんが、武将が先頭に立って名乗りを上げ、腕に自信のある敵方の武将がそれに応じて一騎打ちをし、負けた方は大幅に士気が下がりますので、それで勝敗が決してしまう場合もあったようです。

戦国時代でも、よほど腕に自信のある武将同士の一騎打ちはあったとは思いますが、残念ながらあまり有名な話は残っていません。
武田信玄と上杉謙信が川中島で一度だけ接触した話が最も有名ですが、こちらも作り話という説が有力です。

そう考えると、戦国時代と言えども、力よりは頭が良い武将の方が優れていると言えるのかもしれません。

 

■西日本統治と東日本統治

今でも勘違いされやすいのですが、豊臣秀吉が北条家を破って天下統一した時、徳川家康に関八州を与えられましたが、徳川家康は故郷の三河を離れることになるし、関東は当時田舎だったので、家康は嫌がったというものです。
確かに多少の不満はあったとは思いますが、これは大出世になります。

日本の歴史を最初から学べば分かると思いますが、平安時代は京都中心の政治、鎌倉時代は京都に天皇がいるものの鎌倉中心の政治、室町時代は足利本家の京都の政治と足利分家の鎌倉の政治という流れがありました。
直前の室町時代は、西日本統治と東日本統治で分かれていたのです。
分かりやすく言えば、日本全国を統治するには広すぎるので、西日本は足利本家が統治し、東日本は足利分家が統治するという形になります。

室町幕府を起こした足利尊氏ですが、実際は戦ばかりであまり落ち着いて政治ができた時代ではありませんでした。
南北朝時代といって、西日本と東日本で別々の天皇を掲げて対立から始まっています。

それも何とか治まるまですが、西日本と東日本の統治は続きます。
戦国時代でも、上杉謙信は関東管領という、東日本の足利将軍に次ぐ二番手の地位に就きますが、北条がそれを不服として対立します。

関東を治めてきた北条は、ついに豊臣秀吉によって北条が滅ぼされますわけですが、問題は誰に関東を治めてもらうかです。
秀吉にとって最も良いのは、秀吉の親族に東日本統治を任せることですが、秀吉は徳川家康に関八州、つまり東日本の統治を任せました。

これにより、家康を秀吉に次ぐ二番手と認めたことになります。
当時は他にも毛利、上杉、伊達、島津などの大大名がいたので、大抜擢とも言えます。

秀吉の弟も差し置いて家康に東日本を任せたのは、秀吉の妹を家康に嫁がせていたというのもありますが、家康に借りがあったからという要因があったからかもしれません。
本能寺の変の後、秀吉と家康は小牧・長久手で戦ったのですが、秀吉は負けてしまいます。
しかし、秀吉は織田信雄と和睦したことにより、家康が秀吉と戦う大義名分を失わせ、そこで家康が秀吉の臣下になることを認めたのです。
これが大きな借りとなった可能性があります。

また、秀吉は家康を完全に信用しきっていた可能性も高いでしょう。
結果はご存知の通りですが、当時の秀吉としては家康が最も信頼できると思ったのかもしれません。

家康の故郷である三河国やその周辺の領土が奪われたのは、そこが西日本に属するからです。
家康がこの移封をどう思ったかは分かりませんが、結果的に天下を治めることができたのは、この移封によるものが大きいと思います。

 

■平氏と源氏の血

戦国時代には、平氏も源氏も関係ないと思っていらっしゃる方も多いと思いますが、実は役職に就く際に大いに影響がありました。

平氏も源氏も、元は天皇の親族からの血を受け継いでいます。
ご存知の通り、平安時代末期には平氏が政権を握り、平清盛が全盛を極めます。

その後、源氏である源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉時代に突入します。
鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏も源氏です。

それで、何が問題なのかと言いますと、豊臣秀吉が天下を統一する時に、源氏の血を引いていないので、征夷大将軍になれないということです。

そもそも、征夷大将軍というのは、東北の夷という族を滅ぼすための総大将に与えられた位で、源頼朝が幕府を開いて征夷大将軍となったことで地位が確立されましたが、いつの間にかこの地位が武家の最高位となりました。
源氏は天皇の血を引く高貴なものなので、この地位に就けるという決まりがあったのですが、秀吉は農民出身なので当然、平氏でも源氏でもありません。

そこで秀吉は、公家である近衛前久という人物の養子となり、関白という職に就くことになったのです。
関白は正一位という、役職の中でも最も高い位です。

また、徳川家康は征夷大将軍になりましたが、実は源氏の血を引いていないという説が有力です。
家康は、家系図に細工し、源氏である新田義重の子孫であることにし、源氏の血を引いているとでっち上げたようです。
これは、明らかに嘘という証拠が出ているようなので、やはり偽装のようですが、源氏の血というのは、それほどまでに重要ということでしょう。

武家を中心とする政治を行うために、幕府を開く必要があり、幕府を開くには征夷大将軍にならなければなりません。
征夷大将軍になるには源氏の血を引いていなければならないという暗黙のルールが存在していたので、様々な問題が発生したと考えられるのです。

 

■農民と兵士

戦国時代は、基本的に農民が兵士となって戦っていたようです。
農民がというと語弊があるかもしれませんが、大名配下の兵士といえども、ずっと戦っているわけではありませんから、戦がない時は農業をすると言った方がいいかもしれません。

もともと、鎌倉時代くらいから、合戦で勝った時の報酬として、領地をもらうことが多々ありました。
領地をもらった人は、米や農作物を作って生活することができます。
領地が広ければ広いほど、お金持ちということになります。

他国の敵が攻めてくれば、自分の領地を守るために戦わなければなりません。
こういった流れで戦国時代に突入することになるので、農民と兵士という区別は明確にないところが多かったと思われます。

ところが、兵士と農民を明確に分けたのが、織田信長です。
農民には農業だけ行わせ、兵士には戦いや準備のみ行わせるといったように、完全に役割を分担したのです。

秋になれば米の収穫期になるので、他の大名は農業が忙しくて合戦ができなかったのですが、信長だけは専属の兵士がいたので、いつでも戦うことができたのです。
織田信長はずっと戦をしているイメージがありますが、そういった理由で可能だったと考えられます。

そういったこともあり、織田信長は勝ち続け、天下人に近づいていったと言えるでしょう。

 
戦国時代の人々の苦労を知れば知るほど、勉強にもなりますし、さらに面白いことも分かるものです。
興味がある方は、もっと深く調べてみていただければと思います。

 



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