歴史の面白い謎7
前回に続いて、戦国時代の面白い謎について少しご紹介したいと思います。
■武田信玄はなぜ浜松城を素通りしたのか
武田信玄は、着々と領地を拡大し、病死する直前は、徳川家康を三方ヶ原で散々に破ったことで有名です。
しかし、武田信玄は、なぜ徳川家康のいる浜松城を素通りしようとしたのでしょうか。
もちろん、籠城するつもりだった徳川家康をおびき出すという戦術だったと、皆さんも考えていらっしゃるでしょう。
その通りではあるのですが、武田信玄にしては大胆な戦術と言わざるを得ません。
と言いますのも、武田信玄は慎重な人で、あまり危険な計略は使わず、確実に勝てる戦をするような人だったのです。
努力家で、コツコツと領地の拡大に努めていた大名で、京を目指して浜松城を素通りなどすれば、後で織田信長と徳川家康との挟撃に遭い、窮地に立たされることになるのです。
たまたま、すぐに徳川家康が浜松城から出撃してきたから良かったですが、もし徳川家康が出撃せずに尾張付近まで到達してしまった場合は、かなり危険な状態になると考えられるのです。
武田信玄は、この時すでに発病していて焦っていたとか、判断が正しくできなかったという説もあります。
が、発病していたならなおさら素通りせずに退却していたでしょうし、三方ヶ原の戦いで大勝したことを考えると、正しい判断ができていなかったとも考えにくいのです。
これは、武田信玄の綿密な計算があったのだと私は考えます。
織田信長は、浅井・朝倉軍と戦闘中であり、援軍があったとしても、それほど大軍ではないと予想ができました。
また、徳川家康が出てこなければ、織田信長の方が、浅井・朝倉連合軍と、武田信玄の挟撃に遭うことになり、織田信長討伐の絶好のチャンスとなります。
武田信玄にそのつもりはなくとも、徳川家康がそう考えるのは容易に想像できます。
徳川家康としては、戦わずして武田信玄を尾張に侵入させてしまっては、織田信長への面子が立たないという思いがあるというのも、武田信玄は読んだものと思います。
また、武田信玄が浜松城を無視して素通りしようとすれば、徳川家康は屈辱に耐えられずに、必ず出てくると計算した可能性が高いです。
ただ、三方ヶ原で徳川家康を打ち破った後、武田信玄は浜松城を攻めようとせず、また上洛するわけでもなく、三河の国をウロウロとします。
この行動は謎なのですが、一説には武田信玄の病状が悪化したためというものがあります。
しかし、病状が悪化したのなら、動かない方が良いと思われるので、あまり有力な説ではないかと思います。
私としては、武田信玄は上洛はせずに、浜松城以外の城を攻めて、三河の国を制圧しようとしていたのではないかと思うのです。
慎重な武田信玄であれば、三河国を制圧せずに上洛するとは考えにくいのです。
そのため、当面の目標は三河国の支配だったと思われます。
浜松城を攻めなかったのは、やはり一番難攻な城ですので、最後に攻めるつもりだったのではないでしょうか。
ただ、城攻めの時に、武田信玄の病気が悪化したために、家臣に言われて引き返そうとしたりしたので、妙な行動になったのではないかと思います。
武田信玄の性格を考えるとこのように推測できるのですが、本当のところは謎が残ってしまうところです。
■織田信長はなぜ比叡山を焼き討ちにしたのか
織田信長は、神仏をも恐れず、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたことで知られています。
もちろん、理由もなく比叡山延暦寺を焼き討ちにしたわけではありません。
当時は宗教も大名のような存在であり、僧兵も持っていましたし、一揆衆と組んで戦国大名と互角に渡り合っていました。
他の大名は、宗教を敵に回すことはあまりしませんでしたが、神仏を恐れない織田信長は、自分の言うことを聞かない仏教徒を制圧しようとしました。
そのため、織田信長は本願寺や加賀の一向一揆、雑賀衆や長島一向一揆などと戦うことになり、非常に苦しむことになったのです。
比叡山延暦寺は、信長と浅井長政との戦いで、信長軍に敗れた浅井長政を匿い、逃がしたことで信長の怒りを買います。
信長としては、ここで浅井長政を殺しておきたかったのですが、延暦寺のせいでそれができなくなったので、非常に怒ったとされています。
そのために延暦寺を焼き討ちにしたわけですが、それは仕方ないとしても、この時、女、子どもであろうと逃げる者は全て殺せと家臣に命令しています。
羽柴秀吉や明智光秀らは、この命令を不審に思いながらも、信長に逆らえないために実行しています。
なぜ、無抵抗な者まで殺さなければならないのでしょうか?
織田信長は、雑賀衆攻めの時も、関係のない住民らも大量に殺したりしています。
神仏を恐れないと言っても、これはやり過ぎかと思います。
織田信長の書物を書く人たちなどは、誰も分からないような新しいことをするために、必要不可欠だったとする説もあるようですが、無実の人を殺さなければならないような新しいことなのであれば、そのような世の中にしてはならないかと思います。
私も戦国時代は好きなのですが、それはやはり男の戦いがカッコイイからであり、無抵抗の人を殺すのは道義に反することで、到底受け入れられるものではありません。
当然、反感をもった信長の家臣はたくさん出てくるわけで、荒木村重や松永久秀など謀反が相次ぎます。
その中でも唯一、成功したのが明智光秀ということになります。
信長の家臣の中から謀反が起こることは、必然だったと考えられます。
信長としては、恐らく独裁政治かつ恐怖政治を実現したかったのではないかと私は考えます。
自分を絶対神としたり、第六天魔王と名乗ったりし、逆らうものはみな殺し、武力によって全国を支配しようとしたと思われます。
信長は、確かに古いしきたりを切り捨て、楽市楽座を行ったり、関所の撤廃など、室町幕府までの風習を変えてきました。
信長が頭が良いことは確かで、戦にも強かったことは認めますが、やはり信長のやり方では真の平和が訪れるとは考えにくいのです。
そういった理由から、信長の天下統一を阻止した明智光秀こそ、真の英雄と私は考えています。
■豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのか
天下を統一した豊臣秀吉は、なぜか兵を海外に向け、朝鮮出兵をしています。
せっかく天下統一して平和になると思っていたのに、また戦になるわけですから、民衆も兵たちもうんざりしたはずです。
豊臣秀吉は、なぜ朝鮮出兵をしたのでしょうか?
戦国時代には、南蛮文化も入ってきており、日本の外には国がたくさんあることも、ようやく分かり始めた時期ですが、日本を支配したからと言ってすぐに世界を支配しようと思うでしょうか?
豊臣秀吉は、他の国を支配しようとしたと言うより、もっと精神的な問題が強いようです。
この頃、豊臣秀吉の心は、後継者問題で大きく揺れていました。
ご存知の通り、秀吉には子どもがなかなかできませんでした。
天下人となっても、子どもがいない事態は変わらず、秀吉は焦ります。
自分が死ねば、後継者がいない豊臣家は、当然窮地に陥るからです。
一応、秀吉の親戚を養子として、継がせるつもりではあったのですが、やはり不安が残ります。
そこで秀吉が考えた苦肉の策が朝鮮出兵だったと考えられるのです。
と言いますのは、天下統一したばかりであっても、大名の信頼関係はそれほど厚くなく、いつ反旗を翻してもおかしくない状態であり、大名同士の結束力を高める必要がありました。
結束力を高めるためには、共通の敵がいれば、大名同士が結束して立ち向かうのではないかと考えても不思議ではありません。
現代でも、アニメやゲームなどで、敵同士またはライバル関係であった人が、共通の敵が現れることで、手を組んで味方になったいう話はよくあります。
特に戦いともなれば、戦友という結びつきは非常に強い絆を生むことになり、そのことを秀吉は体験をもって、よく知っていたと思われます。
そうして、大名同士の結束を強くすれば、自分の死後も互いに争うことはないと考えたのではないでしょうか。
しかし、淀殿が子を産んだことで、事態は急変します。
朝鮮出兵は2度ありましたが、1度目は淀殿が子を産んだことで、途中で中止になります。
1度目の文禄の役の後、淀殿が豊臣秀頼を産んだ直後に停戦となります。
2度目の慶長の役の時は、秀吉が病死したために、日本軍は全軍撤退となりました。
秀頼が秀吉の実子かどうかは疑問が残りますが、いずれにしても、子どもが産まれたことで朝鮮出兵を止めていますので、やはり後継者問題が大きく関連していると考えられるのです。
秀吉の実子が後継者として生きていれば、秀吉の死後も安泰と考えたのかもしれません。
ただ、この朝鮮出兵は、皮肉なことに返って豊臣政権を揺るがすことになります。
これについては、次の項目で解説します。
■関ヶ原の合戦はなぜ1日で決着がついたのか
豊臣秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺言を無視して、二心を露わにします。
上杉景勝や石田三成が、それを不服として、その結果、関ヶ原の合戦が起こるわけですが、この合戦はわずか1日で決着がついてしまいます。
天下を二分した戦いなので、長期戦になってもおかしくないのですが、なぜここまで早く決着がついてしまったのでしょうか?
これは、やはり徳川家康の手回しのうまさと、石田三成の悲運が挙げられるでしょう。
話は朝鮮出兵に戻りますが、朝鮮出兵をした大名は、当然大量の軍資金や兵糧を使って出兵します。
当時の豊臣軍は強く、どんどん勝ち進んでいきますが、結局全軍退却してしまいますので、新しい領地を得ることはありませんでした。
戦国時代は、兵を動員する代わりに、主君から報酬をいただくという、ギブアンドテイクで成り立っていて、報酬を払えないなら主君を裏切ることは日常茶飯事であり、不忠の者と罵られるということもありませんでした。
戦国時代の家臣がみな忠義の者と思っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、それは江戸時代の家臣の話であり、戦国時代の豪族たちは、傭兵のように、テイク(報酬)がなければ、主君にギブ(派兵)する必要がないという考えが普通です。
となると朝鮮出兵は、大名にとってギブをしたのに、それに見合うテイクがなかったという結果になったのです。
もちろん、領地以外の兵糧や金などの報酬はあったと思いますが、大名も自分の家臣に報酬を出さなければならないので、やはりそれでは足りず、大名たちも資金不足に悩まされたそうです。
この時、大名たちへの報酬を任されたのが石田三成だったのですが、加藤清正らは、石田三成は戦に参加もせず、報酬もろくに出さないと、かなり不満を募らせていました。
その結果が、関ヶ原の戦いでの行動につながることになるのです。
加藤清正や福島正則は、豊臣秀吉の親戚でありながら、徳川家康についてしまいました。
もちろん、その裏には徳川家康の巧妙な駆け引きもありました。
上杉景勝や石田三成と戦うのは、豊臣のためであり、家康が勝ったら豊臣の天下を保証するとうそぶいたり、戦いになることは家康には分かっていましたので、早い段階から有力な大名と親密にやり取りをしていたようです。
そういった準備があった結果、東軍に寝返る大名が出てきたり、西軍の有力な大名が静観して戦わないなど、家康に有利な状況となり、一気に家康が攻勢に出てわずか1日という短期間で勝敗が決してしまったと考えられるのです。
石田三成はもともと政治家タイプで、戦が得意という人ではないのですが、豊臣側に積極的に家康を滅ぼそうとする武将が他にいなかったために、実質の総大将となってしまい、戦の経験があまりない石田三成は簡単に敗れてしまったという要因もあります。
上杉景勝や真田昌幸らは、豊臣対徳川の戦が長期戦となると見て戦略を考えており、もし本当にそうなったら徳川の天下もどうなっていたか分かりませんが、徳川家康の見事な駆け引きが功を奏したと言えるでしょう。