歴史の面白いの謎6
今回も以前に続いて、戦国時代の面白い謎を少しご紹介できればと思います。
■浅井長政は裏切り者なのか
浅井長政と言えば、織田信長の妹、お市の方を継室として貰い受け、織田家と同盟を結んだ大名として有名ですが、その後、浅井長政は織田信長を裏切り、織田軍を攻撃したとされています。
しかし、浅井長政は本当に裏切り者なのでしょうか?
経緯としては、織田信長が足利義昭将軍を奉じて上洛したところまで遡ります。
既に権力を失った室町幕府の足利将軍ではありますが、織田信長は大義名分を得るためと、その権力を利用するために足利義昭将軍を手助けしました。
織田信長が圧倒的な兵力で、京で権力を振るっていた勢力を一掃し、足利義昭は征夷大将軍としての職務に復帰することができます。
義昭は信長にとても感謝しますが、その後、信長はその権力を利用し、周辺諸国の大名たちに上洛せよと要請します。これは事実上、信長への臣従を意味するものです。
朝倉義景もその要請を受け取った大名の一人でしたが、これを良しとしない朝倉義景は信長の要請を拒否します。
怒った信長は、朝倉家討伐の兵を起こします。
が、実はこれが浅井家に対する信長の裏切り行為だったのです。
朝倉家と浅井家は、百年以上もの同盟関係にあり、浅井長政が織田信長と同盟した時も、織田信長は朝倉への不戦の誓いを結んでいます。
浅井長政が、織田軍を攻撃したのは、信長を裏切ったと言うより、朝倉家を救うためだったと考えられます。
浅井長政は、お市のことがあるので、朝倉家と織田家のどちらを取るかを大変苦しんだと考えられますが、やはり百年の盟友を裏切ることはできなかったのでしょう。
お市も理解を示し、織田家には戻らず、浅井長政と共に死ぬつもりでしたが、秀吉に救出されています。
つまり、裏切り者は、朝倉への不戦の誓いを破った信長の方であり、浅井長政は裏切り者ではないことが分かります。
■鉄砲の三段撃ちは画期的だったのか
長篠の戦いの時、織田信長が鉄砲の三段撃ちで武田の騎馬隊を散々に打ち破ったという話はあまりに有名かと思います。
鉄砲の三段撃ちというのは、鉄砲隊を三つの隊に分けて、一つの隊が一斉に鉄砲を打ったら、弾込めの間に次の隊が一斉射撃を行い、これを繰り返すというものです。
当時の火縄銃は、一度鉄砲を撃つと、筒内の掃除や火薬を詰めたりと、準備に時間がかかりました。
どんなに早くても5分くらいかかったのではないかとのことです。
その間に敵が接近してしまい、鉄砲隊が壊滅させられるというのを避けるため、隊を三つに分けて順番に撃たせたというわけです。
あたかも長篠の戦いで、信長が使った画期的な戦術ということになっていますが、実際はそのようなことは誰でも考えつき、長篠の戦いの前にもその戦術を使った大名もいるそうです。
ただ、長篠の戦いでは信長は3000丁もの鉄砲を使ったというのが、驚異的な数字だったことは確かです。
少しサバを読んでいるかもしれませんが、堺の商人を味方につけた信長であればこそ可能な数なのです。
つまり、四段撃ちでも五段撃ちでも、長篠の戦いの前から鉄砲隊を複数に分けて順番に撃たせる戦術はあったのですが、鉄砲の数が少ないのであまり強調されていなかっただけで、長篠の戦いで信長が鉄砲隊の威力を本格的に見せつけたということだったのです。
■真田信之は長男なのか
戦国人気No.1の真田幸村(本名は信繁)ですが、真田幸村は次男で、幸村には信之という兄がいます。
ただ、不思議なのが、二人の通称です。
通称は、当時他の人から呼ばれる名前で、誰もが持っているものですが、幸村は源二郎なのに、兄の信之は源三郎ということです。
幸村が次男だとすれば源二郎は分かるのですが、なぜ兄の信之が源三郎なのでしょうか。
必ずしも、生まれた順番に一郎、二郎、三郎と付けなければいけないわけではないのですが、それにしても次男が源二郎なのに対して、長男が源三郎というのは違和感があります。
このことから面白い説が出てきます。
父の真田昌幸には、生まれてすぐに死んでしまった長男がいたが、早死のため記録には残されず、幸村がその次に生まれて源二郎と名付け、少し後に生まれた信之に源三郎と名づけたという説です。
それでなぜ信之が長男なのかと言いますと、幸村は真田昌幸の愛人の子で、信之は正室である山手殿の息子であったからです。
昌幸としては、正室である山手殿の息子を嫡男として正式な後継者としたかったと考えられます。
そのため、ほぼ同時期に生まれたので、順番通りに源二郎(幸村)、源三郎(信之)と名づけたものの、信之の方を長男として育てたということです。
あくまでも一説ですので、正しいどうかは分かりませんが、通称の辻褄は合う説です。
また、幸村が昌幸の愛人の子であるのは間違いないので、昌幸は信之より幸村の方を可愛がったと言われています。
そのため、関ヶ原の戦いでは、信之だけが徳川につき、真田家が分断されてしまったのですが、そういった説があるというのを知っていると、また違った見方ができてしまうので、面白いと思います。
■柳生一族や宮本武蔵は強かったのか
剣豪で知られる柳生一族や宮本武蔵ですが、そういった人たちはどれほど強かったのでしょうか。
柳生一族は、柳生宗厳が柳生新陰流を創始し、その息子の柳生宗矩が継いで徳川将軍の代々指南役になったとして有名です。
私もイメージとしては、あまりに剣術が優れていたので、将軍となった徳川家から剣術指南役として士官を頼まれたと思っていたのですが、実際はたまたま剣術指南役として士官した徳川家が天下人となったため、有名になったようなのです。
つまり、もし関ヶ原の戦いで徳川家が破れ、徳川家が幕府を開いてなければ、柳生家はそれほど有名にはならなかったのではないかと思われるのです。
剣術は確かに優れていたと思われますが、やはり徳川が天下人となった影響で、剣術指南役の柳生家を題材とした小説が江戸時代に流行り、有名になったと考えられます。
剣術の達人は、戦国時代には他にも多数いましたし、各地の大名も護身術として剣術指南役という存在は必要だったのです。
そのため、剣術指南役というのは、各地の大名から需要がありました。
まだ徳川家康が天下を治める前から、柳生宗矩が徳川家に剣術指南役として士官していたために、有名になったということです。
一方、宮本武蔵は剣術が強かったと言うより、生きるのに執着していたと言えます。
宮本武蔵も確かに強かったのですが、勝つためには卑怯な戦い方も辞さなかったのです。
宮本武蔵の考えとしては、戦いに負けるというのは死ぬということなので、どんな手段を使ってでも勝たなければならないということです。
柳生一族の者なら、正々堂々と剣術で勝負すると思いますが、宮本武蔵の場合は、砂を投げて目眩ましをしたり、戦う相手を呼びつけておいて、木の上から奇襲をかけたり、とにかく卑怯な戦術を使ってでも勝つことにこだわりました。
巌流島の佐々木小次郎との対決も、わざと遅れてきたのは、佐々木小次郎をイラだたせて戦意を奪うという戦術だったと考えられます。
確かに負けて死んでしまっては元も子もないので、考え方としては間違ってはいないと思いますが、剣豪としてはいかがなものかと思ってしまうのはやむを得ないかと思います。
他にもまた歴史の面白い謎がありましたら、別の機会にご紹介できればと思います。
私は、山手殿の子ではなかったのは信之の方であり、昌幸が可愛がったのも、信之だったと考えています。
系図を嫡庶順で書いた場合、後から生まれた正室腹の子が、庶兄より先に書かれるので、嫡庶順で書かれた真田氏系図が過去に存在したのだと思います。
真田勘解由家出身の真田淑子さんが、小野お通の本を出していて、そこに引用された真田氏系図によれば、信之の出身地が、災害により文書類喪失のため、不詳だとありました。
勘解由家は、真田氏の有力一族だから、引用文書は確かだし、まして、信之が生まれた当時、昌幸正室が甲斐以外にいるはずがないことから、あえて信之出身地を甲斐と書いていない事実から、信之こそ山手殿の子ではなかったといえます。