歴史の計略に学ぶ3

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前回に引き続き、私が感心した歴史の計略をご紹介させていただければと思います。

 

■四面楚歌

周りは敵だらけで孤立してしまったことを四面楚歌ということは、学校で習った方も多いと思いますが、四面楚歌というのは、実際は置かれた状況ではなく計略だったのです。

秦の始皇帝の亡き後、崩壊した秦に代わって項羽と劉邦という人物が立ち上がりました。
項羽と劉邦は互いに争って、項羽は強大な武力で劉邦を圧倒しますが、劉邦はカリスマ性に優れた人物で、負け続けても次々と優秀な人材が集まり、張良という軍師によって形勢は逆転します。

大きな戦いに敗れた項羽は砦に逃げ込み、その砦を劉邦軍が包囲します。
この時、項羽の出身地である楚の歌が、包囲している敵陣から聞こえてきたため、
「故郷である楚の兵士が皆敵になってしまった」
と項羽が言ったのが、四面楚歌の元となっています。

しかし、実際はその段階では、それほど楚の兵士が劉邦軍にいたわけではありませんでした。
これは、項羽の戦意を喪失させるための張良の策でした。

裏切った楚の兵士たちから楚歌を教えてもらい、全員に楚歌を歌わせたのです。
この策は見事に当たり、項羽は逃げるために砦から脱出を計り、逃げ出したところを伏兵で項羽を捕らえたのでした。

四面楚歌という言葉自体は、周囲は敵だらけという意味で間違いないのですが、実際の意味は少し異なっていて、張良の策だったというのは面白い話かと思います。

 

■王允の美人連環計

話は三国志時代に移りますが、四百年近く続いた漢という国が崩壊し始めた頃、董卓という人物が漢の帝を牛耳り、横暴を極めました。
董卓には呂布という強い武将がいたため、暗殺も難しい状況でした。

この状況に心を痛めた王允という董卓配下の政治家が、一計を案じました。
王允には貂蝉という美しい義理の娘がいたのですが、この女性で美人連環計を実行することを決断します。
美人連環計というのは、美しい女性を同時に二人の男性に送り込み、女性を奪い合わせるという策です。

王允は、まず呂布に貂蝉を引き合わせ、呂布が気に入ったところで結婚の約束まで取り付けます。
二人の仲が親密になったところで、今度は董卓を家に招き、貂蝉の舞を見せ、董卓も貂蝉を嫁にすると言わせて、婚儀の支度を進めます。

それを聞いて怒った呂布が、王允に詰め寄りますが、王允は
「娘は呂布殿にお譲りするつもりでしたが、董卓が嫌がる娘を強引に奪ったのです」
と答え、怒りの矛先を董卓に向けさせたのです。

呂布は董卓の義理の息子になっていたので、安易には手を出せなかったのですが、ある日貂蝉に会った時、貂蝉が泣いて
「本当は呂布将軍と一緒になりたかったのに、あの者に身を汚されてしまいましたので、もう生きていたくはありません」
と言ったことで、呂布は董卓の暗殺を実行し、見事に成功したのです。

貂蝉の身になって考えると残酷な話ではありますが、将来を憂いた貂蝉が、自ら王允に懇願したという話になっています。
この話は創作である三国志演義のお話ですので、事実ではない可能性がありますが、そうだとしても見事な計略の一つと言えるでしょう。

 

■苦肉の策

三国志時代の頃の話ですが、曹操が袁紹を倒して勢いを増し、今度は南下して呉の孫権の領土を奪おうとしました。
孫権は、頭の良い周瑜という人物を都督として抜擢し、軍の指揮を任せました。

曹操軍と孫権軍は、長江という大きな川を挟んで対峙し、戦いは船上になると予想されました。
周瑜は曹操軍の船を全て炎で焼き尽くす策を提示しましたが、曹操軍の船の数が膨大で、火攻めをしたところで被害は広がらないと考えられました。

そこで、黄蓋という呉の将軍が、自分が曹操軍に寝返ったフリをして、曹操軍の船団の中央から火を広げると申し出ます。
しかし、黄蓋は長年、呉に仕えてきた老将で、曹操が寝返りを信じるわけがないと周瑜が言います。

そこで黄蓋が提案したのが、苦肉の策です。
黄蓋は、軍議の場で、曹操へ降伏することをわざと進言します。
ここで周瑜も怒った演技をして、
「このような場で降伏すると言ったものは斬ると申したはずだ」
と言って黄蓋を死罪にしようとします。

このような芝居を全く知らなかった他の将軍たちが、必死で周瑜を止めたため、周瑜も
「黄蓋殿は長年、呉に仕えてくれた将軍であることと、他の者の進言に免じて、百叩きの刑に処する」
と言います。

これは実際に刑が執行され、黄蓋は棒で百回叩かれました。
実は呉に曹操のスパイが入り込んでいることを、周瑜らは事前に知っていたためにそこまで行ったのです。
もちろん黄蓋も承知の上で、黄蓋が刑罰を受けることを申し出たとされています。
曹操のスパイはこれを曹操に報告したため、その後の黄蓋の降伏の申し出を信じることにしたのです。

その結果、黄蓋は一隻の船で曹操軍の中央へ突入することができ、油の積んだ船が、曹操軍の船団の中央から大きな火を発生させることができました。
すかさず周瑜の船団が火矢などで火攻めをかけ、曹操軍の大船団は一夜にして炎に沈んでしまったのです。

この苦肉の策というのは、自らの肉体を痛めてでも実行する計画という意味なのですが、現代では追い詰められて苦しい時に考える手段という意味もあるようです。
この話も創作である三国志演義の話ではありますが、この赤壁の戦いの辺りは、様々な計略が錯綜しており、非常に面白い話となっています。
既にこのサイトでも紹介している計略も多いですが、興味があれば小説や映画などをご覧いただければと思います。

 

■司馬懿の演技

三国志の終盤、司馬懿という人物が魏の国に対してクーデターを画策します。
元々司馬懿は野心の強い人物でもありましたが、魏の皇帝の後継ぎに優秀な人物がいないことや、皇帝の後継者争いなどが絶えなくなってしまい、司馬懿が国を安定させるためにクーデターを起こした可能性もあります。

ただ、司馬懿という人物が頭の良い人だったために、皇帝の曹爽も司馬懿の反乱を警戒していました。
司馬懿は高齢だったために、病気と称して一度引退したように家に篭もります。
しかし、曹爽の警戒は解けず、李勝という人物を司馬懿の見舞いとして送り、様子を見させました。

そこで司馬懿は、わざと李勝の前でボケ老人になったフリをしたのです。
李勝の言葉も分からず受け答えができなくなったフリをして、
「あ~、う~」
と頭がおかしくなったような言動をしたり、飲み薬も開いた口からうまく飲めずにダラダラとこぼすなどの演技をしました。

李勝はありのままを皇帝の曹爽に報告し、これを信じた曹爽は安心して前皇帝の墓参りをしに本拠地である洛陽を離れました。
この時を待っていた司馬懿は、洛陽を安々と占拠し、皇帝の曹爽を排除しました。

この後、司馬懿が自ら皇帝になることはなく、曹操の子孫を皇帝に選んできましたが、司馬懿の孫の司馬炎はついに皇帝を乗っ取り、さらに中国全土も統一して晋を築いたのです。

なかなかボケた演技をして皇帝を油断させるという策は思いつきませんが、司馬懿という人物は頭が良いが少し変わり者という面もあり、そのようなことも平気でやってのけたのかと思われます。

 
歴史の計略の中には、それによって戦いの勝敗を変えたものや、あまり伝わっていないのに裏ではすごい計略が動いていたものなど、面白いものが様々あります。
こういった歴史を学ぶことで、少しでも頭の良い人間に近づくのではないかと思いますので、興味があればご自分で勉強していただければと思います。

 



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