戦国時代の背景2

0 Comments


前回に引き続き、戦国時代の興味深い背景などをご紹介させていただければと思います。

 

■なぜ戦が起こるのか

そもそも、なぜ戦が起こるのかと言えば、後継者争いが圧倒的に多い要因です。
戦国時代の発端となる応仁の乱も後継者争いが原因です。

最も問題となるのが、権力の高い者や大名が亡くなった時、その大名の長男が後を継ぐのが筋なのですが、その長男がまだ幼い場合に、亡くなった大名の弟が後を継ごうとする場合です。
この場合、家臣たちが一方を指示すれば、まだ収まりやすいのですが、家臣たちが真っ二つに別れた場合は、争いが激化します。

それが大規模な戦となり、形勢が不利となった方が隣国の大名に助けを求めます。
助けを求められた大名は、片方の味方をして勝利すれば、領地を増やせるチャンスとなりますので、援軍を出す場合が多いのです。

これにより、不利となった敵方が、別の隣国の大名に助けを求め、どんどん戦が飛び火するわけです。
しかも、後継者争いをしていた大名家が和睦などにより問題が収まったとしても、家臣たちや隣国の大名たちが戦による被害の恨みをはらすべく、戦を続けることになるのです。

戦国時代にはこういったことが各地で起こったために、文字通りの戦国時代に突入し、国盗り合戦が始まったわけです。

この後継者問題には、数々の大名も悩まされてきました。
世襲制(子が後を継ぐ)時代の問題点と言えるでしょう。

 

■忍びの実態

現代でも忍者と言えば、人気のある日本の登場人物で、スパイ活動が主な任務です。
基本的に忍者というのは現代用語で、昔は「透破」とか「しのび」、「乱破」、「草の者」などの呼び方をします。

忍びと言えば、黒装束を着てかっこよく敵を斬るというイメージが強い方も多いと思いますが、実際はそのようなカッコイイことをすることはあまりありません。

黒装束を着るのは、夜中に闇に紛れて城などに潜入する時だけです。
普段は、山伏や農民の格好などをして普通の民衆にとけ込みます。
でないと、すぐに忍びとバレてしまいます。

また、忍びの本質は隠れて逃げることにあり、戦うのはやむを得ない場合だけです。
要人暗殺の任務もありますが、この任務はごく稀でした。
水遁の術や土遁の術というものは確かにありますが、この「遁」という字は逃げるという意味です。

忍びの主な任務は情報収集です。
城などに潜入して、敵大名の戦略を聞き出したりすることもありますが、城の中で見つかった時のために、予め逃げ道を用意しておいたりします。
その時に使ったのが、火遁の術や土遁の術で、これを目撃した者たちが、忍びは魔法のような不思議な術を使うという強烈なイメージを叩きつけられたと思われます。

また、稀ですが戦忍(いくさしのび)という者を使う大名もいました。
文字通り、合戦時に戦う忍びのことです。
忍びは修行で身体を鍛えていますので、戦えば当然強いのですが、基本的に戦忍の任務は、敵のフリをして偽の情報を流してかく乱することなどが目的です。

誤解が多いにせよ、忍びというのは非常に面白い存在であることには変わりありませんので、興味がある方はご自分で調べてみていただければと思います。

 

■占いは本当にあると思われていた

戦国時代では、神仏はもちろん、占いや祟りのようなものは、本当にあると信じられていました。

科学が進んだ現代では信じにくいことですが、占いの結果などで戦をするかしないかを決める大名もいたと言われています。
中国史にもよく占いは出てきて、帝の位に就くために吉兆を占ったり、戦をすべきかを占い師に相談するといった話も時々出てきます。

また、合戦時の旗印として神の名前を掲げる武将もいました。
合戦前に神社に必勝祈願に毎回行く大名もいました。

祟りも同様に信じられていました。
山で悪行を行えば、山の神に祟られて山が噴火するといった話や、殺された武将の怨念が町民たちを疫病にして苦しめているなどといった話があります。

日本神話や童話なども、そういったものを信じた人たちによるお話を書き残したものと言えるでしょう。
現代では単に作り話とされているものでも、昔の人たちは大真面目に書き残したものかもしれません。

昔のお話を読む時も、そういった背景を知っていると、より昔の人たちの気持ちが分かるかもしれません。

 

■方言は戦国時代の名残

現代でも、地方の方言は残っています。
その地方でずっと話されている言葉で、これは戦国時代の名残と言われています。

なぜ方言ができたかと言えば、これはスパイ対策が目的のようです。
戦国時代は、隣国が敵の場合などで、簡単にスパイが入り込んで情報収集ができましたが、その対策として少しその国の言葉やイントネーションを変えるということをしました。
そうすることで、方言が話せない人をすぐに異国の人間と判断できたのです。

これは、敵国の偽の流言や、情報収集の妨げとして非常に役に立ったようです。
この方言が親から子へと伝わり続け、今でも残っているのです。

同じ関西弁でも、大阪と兵庫で微妙に違うのも、国ごとに方言が作られた証拠と言えるでしょう。
東北弁などは訛りがきつくて、通じにくいこともありますが、そういった背景を知っていると、考え方も変わってくるものです。
方言のある地方の方々は、自分たちの方言に誇りを持って、次世代につなげていっていただきたいと思います。

 
古きをたずねて新しきを知る(温故知新)という言葉があります。
昔のことを調べれば勉強になり、現代でも役立てることができるかもしれません。
皆さんも興味があれば、昔のことを勉強してみていただければと思います。

 



関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを投稿する

メールアドレスが公開されることはありません。メールアドレスを入力すると、返信があった時に通知されます。
※が付いている欄は必須項目です。

※コメント送信前に以下をご確認ください。

コメントは承認制になっております。
どんどんお気軽にコメントを投稿していただいても構いませんが、記事の内容と関係ないものは掲載されませんので、ご注意ください。
逆に、記事の内容に沿っていれば、どんな批判的なコメントでも受け入れさせていただきます。

私自身、未熟なことは重々承知しておりますので、批判的なご意見を書き込んでいただくのは大いに結構なのですが、どこをどう改善すれば良いか分からないコメントも多いため、できましたらどの部分がどういった理由でダメなのかや、改善策も述べていただけますと幸いです。