歴史の面白い謎4

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前回に続き、戦国時代の面白い謎を少しご紹介します。

 

■上杉謙信は誰を後継者にしたかったのか

上杉謙信の後継者として、上杉景勝が後を継いだということは周知の事実ですが、上杉謙信はこれを望んでいたのでしょうか?

上杉謙信は謎が多い人物です。
生涯一度も結婚をせず、養子はいましたが、実子は当然いませんでした。
そうなると、後継者を誰になるかが問題になりますが、やはり謙信の死後に後継者問題が発生し、内戦が起こります。

上杉景勝は、謙信の姉の息子で、謙信の養子になっています。
これと争ったのが、北条氏康の七男の三郎(上杉景虎)で、こちらも謙信の養子となっています。
普通に考えれば、親戚にあたる景勝が正当な後継者で問題ないように思えますが、謙信は北条三郎の方を後継者にしようとしていた可能性があります。

北条と上杉は、関東管領の地位を争い続けた歴史があります。
しかし、武田・今川・北条の三国同盟を、武田信玄が破り、今川・北条を攻めたことで、北条氏康は危機に陥ります。
そこで、犬猿の仲である上杉と同盟を結んで、危機を乗り越えようとしました。

上杉・北条同盟は苦労の末に成立しますが、この時お互い人質を差し出しています。
北条が上杉に差し出した人質が北条三郎です。
また、同盟の条件として、上杉謙信が正式に関東管領なるということを、北条は認めました。

しかし、北条氏康が病死すると、実権を握った息子の北条氏政は、上杉・北条同盟を破棄して、武田と再び同盟したのです。
通常ならこれで人質は戻されるのですが、上杉からの北条の人質は返されたにも関わらず、北条三郎は戻りませんでした。

これは、上杉謙信に実子がいないことと、北条三郎が正式な上杉謙信の養子となっていたためと思われます。
つまり、北条方の考えとしては、このまま上杉謙信が亡くなれば、北条家の人間が上杉家を継ぐ可能性があり、上杉家を乗っ取ることができるかもしれないので、敢えて人質の返還を要求しなかったのです。

ここで、問題となるのが、なぜ上杉謙信が北条三郎を返還しなかったのかということです。
無理にでも人質を返すと言えば、実現できたはずです。
しかし、そのまま北条三郎を返さなかったのは、三郎に上杉家と関東管領の職を譲るつもりだった可能性が高いのです。
仮にそうだったとすると、今度はなぜ犬猿の仲である北条の血を持つ者を後継者にしようと思ったのかが問題となりますが、これは以前このサイトでも述べた「上杉謙信男色説」が浮上します。
謙信が北条三郎に並ならぬ好意を抱いたのであれば、辻褄は合います。

また、北条三郎は謙信の正式な養子になったという記録はありますが、景勝が正式に養子になったという記録は存在しないようで、直江兼続らが上杉家を守るために色々と工作した可能性があります。

謙信は、病気によって急死したため、遺言を残さなかったという問題もあります。
謙信が「景勝を後継者とする」という遺言を残したというのは、直江兼続の策でしょう。

御館の乱という後継者争いの結果、上杉景勝が勝利して、正式に後継者となりましたが、謙信の意志とは違う結果だったのかもしれません。

 

■徳川家康の関八州への移封は不満だったのか

北条征伐後、豊臣秀吉は天下を統一を達成し、大幅に国替えや論功行賞が行われました。
この時、徳川家康の元々の東海の領地を没収され、関八州を与えられました。

「これには徳川家康も不満を我慢して従った」という表現がよくされますが、本当に不満だったのでしょうか?

確かに、関八州は京の周辺諸国よりも田舎ではありましたし、北条らの戦続きで大地は荒らされていました。
また、今までの故郷や、頑張って領地を獲得してきた、三河・遠江・駿河などの領地が没収されたことはショックだったでしょう。
秀吉が徳川家康を京都から遠ざけたという意味もあると思っている人もいらっしゃるようです。

しかし、これらの解釈は間違っている可能性が高いです。
恐らく、徳川家康本人は、関八州への移封を喜んだはずです。

というのも、関八州を与えるというのは、西日本は秀吉が統治し、東日本は家康に任せるという意味も含まれます。
鎌倉時代からの歴史を勉強すれば分かりますが、これは秀吉がトップで、家康をNo.2とするということになります。

室町時代からは、足利家が兄弟で西日本と東日本を統治していました。
東日本の足利将軍に次ぐNo.2のポジションが関東管領で、この地位を巡って、北条や上杉や武田らがずっと争ってきた歴史があります。

北条征伐後は、関八州を誰に任せるかは非常に重要な選択となります。
当時は、徳川家康以外にも、毛利輝元、島津義久、伊達政宗、上杉景勝など、名だたる大名が多くいました。

その中で家康に関八州を任せたのは、非常に大きな意味を持ちます。
当時、秀吉には実子がなく、秀吉に万が一のことがあれば、家康がかなりの権力を握ることになるのです。
これを喜ばなかったとは思えません。

東海の徳川領土が奪われたのは、その領域が西日本に属しているからです。
今までの領地を奪われたことはショックだったと思いますが、天下を狙える位置にきたという意味では、喜んだ可能性が高いと思われます。

 

■上杉景勝はなぜ会津に移封になったのか

秀吉の死の直前に、上杉景勝は越後から会津に移封になっています。
こちらも故郷を手放すことになり、景勝は不満だったと思います。

ただし、越後よりも会津の方が石高としては3倍くらい高かったので、実質的には昇格になります。
しかし、秀吉が景勝を越後から離れさせたのはなぜでしょうか?

実は、これには伊達家の存在が大きく関わっています。
伊達政宗は、豊臣家へ服従はしましたが、かなりの不満があったものと思われます。
そのため、秀吉は政宗を警戒していました。

秀吉の病気が悪化していたため、もし秀吉の死後、政宗が謀反を起こしたら、徳川家康も政宗と結んで謀反を起こす可能性があり、そうなると豊臣家の存続が危うくなります。
そのため、政宗に対して楔を打つ必要がありました。

しかし、東北には信頼できる大名がいませんでした。
そこで選ばれたのが、上杉景勝です。
秀吉は景勝を信頼していましたので、越後から会津に移ってもらい、伊達政宗を牽制させるという役目を担わせたのです。

結果的には、秀吉の死後、徳川家康が逆心をあらわにして上杉景勝討伐が始まり、伊達政宗も家康と結んで立ち上がることになってしまい、その後、関ヶ原合戦に突入してしまうわけですが、上杉の会津移封はこういった理由があったのです。
上杉は伊達を抑える役割以上の働きを見せましたが、結果は関ヶ原での家康勝利となったわけです。

 

■直江兼続の兜の愛の意味

直江兼続の兜に、愛という文字が大きく乗せてあるというのは有名ですが、この本当の意味を知っている人は少ないかと思います。

「国の住民を愛する」
という意味で解釈している人が多いと思いますが、実は違う可能性が高いのです。

直江兼続は愛宕(あたご)神社の愛宕神をずっと信仰していて、その愛の文字を取ったという説が有力なのです。
上杉謙信軍の「毘」という旗印も、謙信が毘沙門天を信仰しているので、その文字を取っていました。

もし、「国の住民を愛する」という意味で、自分の兜に愛という文字を掲げたとするなら、今我々がそう解釈する分には格好良いと思うかもしれませんが、当の本人の気持ちになってみれば、当時の人間としても恥ずかしいと思うでしょう。

直江兼続は頭の良い人物だったので、やはり全面に愛を出したというよりは、信仰する神から取ったとする説の方が正しいかと思います。

 
上杉謙信関連の謎が多くなってしまいしたが、やはり上杉謙信というのは謎が多い人物なのです。
ただ、調べれば調べるほど、面白い事実も分かってくるものです。
他にも面白い謎があれば別の機会にご紹介いたします。

 



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