関ヶ原の合戦はなぜ1日で決着がついたのか

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■関ヶ原の合戦はなぜ1日で決着がついたのか

豊臣秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺言を無視して、二心を露わにします。
上杉景勝や石田三成が、それを不服として、その結果、関ヶ原の合戦が起こるわけですが、この合戦はわずか1日で決着がついてしまいます。

天下を二分した戦いなので、長期戦になってもおかしくないのですが、なぜここまで早く決着がついてしまったのでしょうか?

これは、やはり徳川家康の手回しのうまさと、石田三成の悲運が挙げられるでしょう。

話は朝鮮出兵に戻りますが、朝鮮出兵をした大名は、当然大量の軍資金や兵糧を使って出兵します。
当時の豊臣軍は強く、どんどん勝ち進んでいきますが、結局全軍退却してしまいますので、新しい領地を得ることはありませんでした。

戦国時代は、兵を動員する代わりに、主君から報酬をいただくという、ギブアンドテイクで成り立っていて、報酬を払えないなら主君を裏切ることは日常茶飯事であり、不忠の者と罵られるということもありませんでした。
戦国時代の家臣がみな忠義の者と思っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、それは江戸時代の家臣の話であり、戦国時代の豪族たちは、傭兵のように、テイク(報酬)がなければ、主君にギブ(派兵)する必要がないという考えが普通です。

となると朝鮮出兵は、大名にとってギブをしたのに、それに見合うテイクがなかったという結果になったのです。
もちろん、領地以外の兵糧や金などの報酬はあったと思いますが、大名も自分の家臣に報酬を出さなければならないので、やはりそれでは足りず、大名たちも資金不足に悩まされたそうです。

この時、大名たちへの報酬を任されたのが石田三成だったのですが、加藤清正らは、石田三成は戦に参加もせず、報酬もろくに出さないと、かなり不満を募らせていました。
その結果が、関ヶ原の戦いでの行動につながることになるのです。
加藤清正や福島正則は、豊臣秀吉の親戚でありながら、徳川家康についてしまいました。

もちろん、その裏には徳川家康の巧妙な駆け引きもありました。
上杉景勝や石田三成と戦うのは、豊臣のためであり、家康が勝ったら豊臣の天下を保証するとうそぶいたり、戦いになることは家康には分かっていましたので、早い段階から有力な大名と親密にやり取りをしていたようです。

そういった準備があった結果、東軍に寝返る大名が出てきたり、西軍の有力な大名が静観して戦わないなど、家康に有利な状況となり、一気に家康が攻勢に出てわずか1日という短期間で勝敗が決してしまったと考えられるのです。

石田三成はもともと政治家タイプで、戦が得意という人ではないのですが、豊臣側に積極的に家康を滅ぼそうとする武将が他にいなかったために、実質の総大将となってしまい、戦の経験があまりない石田三成は簡単に敗れてしまったという要因もあります。

上杉景勝や真田昌幸らは、豊臣対徳川の戦が長期戦となると見て戦略を考えており、もし本当にそうなったら徳川の天下もどうなっていたか分かりませんが、徳川家康の見事な駆け引きが功を奏したと言えるでしょう。
 



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