織田信長はなぜ比叡山を焼き討ちにしたのか

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■織田信長はなぜ比叡山を焼き討ちにしたのか

織田信長は、神仏をも恐れず、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたことで知られています。
もちろん、理由もなく比叡山延暦寺を焼き討ちにしたわけではありません。

当時は宗教も大名のような存在であり、僧兵も持っていましたし、一揆衆と組んで戦国大名と互角に渡り合っていました。
他の大名は、宗教を敵に回すことはあまりしませんでしたが、神仏を恐れない織田信長は、自分の言うことを聞かない仏教徒を制圧しようとしました。

そのため、織田信長は本願寺や加賀の一向一揆、雑賀衆や長島一向一揆などと戦うことになり、非常に苦しむことになったのです。

比叡山延暦寺は、信長と浅井長政との戦いで、信長軍に敗れた浅井長政を匿い、逃がしたことで信長の怒りを買います。
信長としては、ここで浅井長政を殺しておきたかったのですが、延暦寺のせいでそれができなくなったので、非常に怒ったとされています。

そのために延暦寺を焼き討ちにしたわけですが、それは仕方ないとしても、この時、女、子どもであろうと逃げる者は全て殺せと家臣に命令しています。
羽柴秀吉や明智光秀らは、この命令を不審に思いながらも、信長に逆らえないために実行しています。

なぜ、無抵抗な者まで殺さなければならないのでしょうか?
織田信長は、雑賀衆攻めの時も、関係のない住民らも大量に殺したりしています。

神仏を恐れないと言っても、これはやり過ぎかと思います。
織田信長の書物を書く人たちなどは、誰も分からないような新しいことをするために、必要不可欠だったとする説もあるようですが、無実の人を殺さなければならないような新しいことなのであれば、そのような世の中にしてはならないかと思います。

私も戦国時代は好きなのですが、それはやはり男の戦いがカッコイイからであり、無抵抗の人を殺すのは道義に反することで、到底受け入れられるものではありません。
当然、反感をもった信長の家臣はたくさん出てくるわけで、荒木村重や松永久秀など謀反が相次ぎます。
その中でも唯一、成功したのが明智光秀ということになります。
信長の家臣の中から謀反が起こることは、必然だったと考えられます。

信長としては、恐らく独裁政治かつ恐怖政治を実現したかったのではないかと私は考えます。
自分を絶対神としたり、第六天魔王と名乗ったりし、逆らうものはみな殺し、武力によって全国を支配しようとしたと思われます。

信長は、確かに古いしきたりを切り捨て、楽市楽座を行ったり、関所の撤廃など、室町幕府までの風習を変えてきました。
信長が頭が良いことは確かで、戦にも強かったことは認めますが、やはり信長のやり方では真の平和が訪れるとは考えにくいのです。

そういった理由から、信長の天下統一を阻止した明智光秀こそ、真の英雄と私は考えています。
 



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