歴史の作り話

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今知られている歴史というのは、実は間違ったことが多いものです。
というのも、よく知られている歴史の逸話は、歴史を元にした作り話の小説が元となっていることが多いからです。
歴史好きの方はよくご存知かと思いますが、作り話と史実の違いを比較してみましょう。

 

■歴史小説

近年、ドラマやゲームなどで楽しまれる歴史の逸話は、ほとんどが江戸時代に流行った小説が元となっています。
さらに、そういった小説は、少ない歴史の資料を元に、面白く肉付けされます。

江戸時代の作家も、お金を稼がなければなりませんので、史実の話がさらに面白くなるように、いろいろと話を肉付けするのです。
当然、そういった話には嘘も混じります。
真実が分からない部分は、作家が想像して、辻褄が合うように話を穴埋めするのです。

なので、今知られている歴史の逸話が真実であるとは限らないのです。
資料や記録がなければ、もはや誰にも真実は分かりません。
歴史の逸話を楽しむ分には何の問題もないですが、こういった事情は知っておいた方が良いでしょう。

 

■戦国No.1人気の真田幸村は本名ではない

例えば、歴史好きの中でも人気の高い真田幸村ですが、この幸村というのは本名ではありません。
歴史書のどの記録を調べても、真田幸村という人物はどこにも出てきません。

この真田幸村という名前は、江戸時代初期に大流行した「真田十勇士」という小説から広まったとされています。
真田十勇士という小説に出てくる真田幸村は、実在した真田信繁をモデルとして描かれ、十人の忍びの仲間と共に徳川家康と戦う創作です。
この十人の忍びも、架空の人物とされていますが、一部は実在していた人物がモデルとなっているようです。

真田信繁は、真田昌幸の息子で、大阪の陣でも大活躍した人物で、我々が知っている真田幸村と同一人物とみて良いです。
この「真田十勇士」を元に、さらに色々な小説が出版され、いつの間にか真田幸村という名前が定着していったのです。

また、真田幸村はドラマやゲームでかなり若い人物として描かれていますが、実は真田信繁が活躍して有名になったのは、討ち死にした大阪城戦のみで、その時の年齢は49歳ですので、だいぶイメージの違いがあります。
その前の上田城戦などでも活躍はしていますが、その時は城主で父親の真田昌幸の方が目立っていたために、当時はまだ信繁の名前はあまり知られていませんでした。

このように、真田幸村一人をとってみても、史実とかなり違うことがお分かりいただけるかと思います。

 

■戦国武将は役職で呼ばれる

これもドラマや小説などで間違いが多いのですが、戦国時代の人物の本名は、死後に呼ばれるものであって、当時の人たちの間では、基本的には役職名で呼び合います。
ですので、セリフに名前が出てくるのは間違いです。

例えば、本能寺の変の時、森蘭丸が織田信長に報告するシーンで、
「明智光秀様、ご謀反!」
というセリフがあるのは間違いです。
正しくは、
「明智日向守(ひゅうがのかみ)様、ご謀反!」
となります。

もちろん、小説の文章などで本名を使うことは問題ありませんが、当時の人が使っていた言葉の場合は、役職名で呼び合うのが正しい表現となります。
役職がない人は、通り名や通称(久兵衛や権左衛門など)で呼ばれます。

もっとも、それだと誰のことを言っているのか分かりにくいので、あえて本名でセリフを言わせている場合もあるようです。
それでも良いのですが、もし忠実に歴史を再現するなら、役職名や通称で呼ぶのが正しいと覚えておくと面白いかもしれません。

現代でも、会社内では「課長」や「部長」など、名前でなく役職名で呼ぶことがあるかと思いますが、それは戦国時代からの名残と言えるでしょう。
欧米ではこの文化はなく、上下関係があってもファーストネームで呼び合うのが普通です。

 

■三国志演義と三国志正史

中国の人気の歴史である三国志も、実はほとんどが作り話です。
三国志には、三国志正史と三国志演義があり、三国志正史は史実で、三国志演義は三国志正史を元に創作された作り話とされています。

我々がよく知っている面白い逸話のほとんどは、三国志演義が元となっています。
三国志正史は、歴史書のようなもので、読んでいても淡々と説明が書いてあるだけなので、あまり面白くありませんが、三国志演義は物語として面白く肉付けされたものですので、非常に楽しめる作品となっています。
しかし、三国志演義の話はそれだけ嘘の部分が多いとも言えます。

ただ、どちらが真実に近いかというのも、微妙な話となります。
というのも、正史の方も嘘が書かれている可能性が高いからです。

歴史書というのは、その国に雇われた文官が書くのですが、その国の悪事をそのまま書いてしまうと、著者が国王に殺されてしまうことがあるのです。
国王としても、自分や自国の良いところだけを記録に残しておきたいのでしょう。
悪事は書かせず、善政をでっちあげて著者に書かせるのです。
これを破って真実を書いてしまうと、その者は殺されてしまい、別の人間が引き継ぐということが頻繁にありました。

三国志正史は陳寿という当時の人物が書き、その数百年後に裴松之という人物が編纂しているのですが、裴松之は真実を書けるので、嘘の部分に注釈を入れ、
「この部分は真実ではない。証拠もある」
というような箇所がいたるところに見られます。
陳寿も真実が書けなかったとみて間違いないでしょう。

三国志演義の方は、三国志時代からずっと後に書かれているので、作り話とは言え、当時の人たちの悪事なども、真実であれば平気で書けます。

例を上げますと、三国の一つ、魏の曹操の息子、曹丕が帝の地位についていますが、正史では漢の帝から禅譲(帝の位を譲られること)されたとしていますが、三国志演義では曹丕が帝の位を簒奪(位を奪うこと)したと書いてあります。
当時の曹丕は、父親の曹操が死んだばかりで実績もなく、実力も未知ですので、漢の帝が曹丕に位を譲ることは、まず考えられません。
もし、漢の帝に位を譲る気があったのであれば、それは曹丕にではなく、実績も実力もある父親の曹操に譲っていたはずです。
曹丕は、父親の曹操が死んだ後すぐに帝を追い出して、自分が帝になったと考えるのが自然でしょう。
よって、禅譲ではなく、簒奪が正しい可能性が高く、正史の方が嘘であるとお分かりいただけると思います。

三国志正史は、魏の後の晋の時代に書かれたものですが、晋は魏を受け継いだ国ですので、やはり魏の悪事を書くと殺されてしまう可能性が高かったのでしょう。
陳寿は、蜀(三国の一つ)の国の出身ですので、本当は真実を書きたかったのですが、やむを得ず晋の帝に言われるまま嘘を書いたと思われます。

また、日本の戦国時代でも、各大名家の記録に書いてある兵士数は、10倍くらいに誇張して書くのが普通だったようです。
自国の強大さを他国を見せつけて威嚇するということと、後世にも強い国だったと示したかったのでしょう。

 
このように、純粋な歴史書ではあっても、書いてあること全てが真実とは限りません。
逆に言うと、真実が分からないからこそ、面白いとも言えます。
自分なりに真実を調べてみると、もっと歴史が楽しめるようになるかもしれません。

 



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