戦国時代の背景5
前回に続き、戦国時代の背景について、少し考察してみたいと思います。
■身分制度は本当にあったのか
戦国時代と言えば、士農工商の身分制度があったという認識がある方も多いと思いますが、士農工商という身分制度はなかったのではないかという説が、近年になって出始めてきています。
元々、士農工商というのは、戦国時代ではなく、江戸時代になって確立されたと言われており、戦国時代に身分制度は厳密になかったものの、江戸時代になって身分制度が厳しくなったというのが、これまでの認識でした。
しかし、士農工商という身分制度が明確にあって、下の身分の者は上の身分に従わなければならないという法があったわけではないので、疑問視され始めてきているようです。
それはもちろん、その通りではあると思います。
明確な身分制度があったわけではないので、必ずしも下の身分の人が上に従わなければならないという法はなかったと思われます。
ただ、戦国時代にしろ、江戸時代にしろ、暗黙の了解的に、そのような身分によって区別けてされていたということはあったかと私は思います。
別の記事でも書きましたが、戦国時代までは農民と武士は同じようなものでした。
これは、戦で活躍すれば、俸禄として領地をもらうことができ、その領地で農作物が作れるということと、他国や山賊などから自分の領地を守るために、農民も武器を取って戦わなければならなかったということから容易に想像できます。
しかし、これでは収穫期に戦ができなくなるなど、不便が生じるので、織田信長が士農分離を行い、他の大名がそれを真似たことから、武士と農民が明確に分かれました。
武士は農地を守るので、農民は武士には頭が上がりませんが、農民はみんなの農作物を作るので、武士に次いで敬われていたと思われます。
士農工商の工は、職人を意味します。
武器や生活品を作る職人は、農民に次いで必要な人で、物を売るだけの商人よりも偉いと思われていたということでしょう。
以上のことから、明確な身分制度はなかったにしろ、職種によって尊敬される順番はあったと思われます。
特に武士は、権力も力そのものも強い人たちでしたし、武士の中には明確な身分制度があったので、武士は他の職種の人たちにも厳しかったのでしょう。
そのため、士農工商という暗黙の身分制度が存在していたのかと私は思います。
■戦国時代の裏切り
裏切り者というと、イメージが悪いですが、戦国時代では他の大名や豪族に寝返ることは普通のことでした。
日本人は忠誠心が高く、裏切り者を許さないというのが、戦国武将だというイメージだという人が多いと思いますが、忠誠心が高かったのは、江戸時代になってからの話です。
それまでは、寝返りというのは日常茶飯事的にありました。
と言いますのも、戦国時代の武士たちも、ビジネスのようなもので、俸禄がもらえないとか、国が滅ぼされそうだと判断すれば、他の大名や豪族に、すぐに鞍替えしていたのです。
現代で言えば、会社の給料が低いとか、会社が潰れそうだから、別の会社に転職するのと同じ感覚です。
もちろん、全ての武士がそうというわけではなく、中には忠義を尽くして、国が滅びそうになっても、今の大名と運命を共にするという武士も多くいたことは事実です。
しかし、それはよほど仲が良いとか、俸禄などで恩があるなどの場合のみで、特にそういったものがなければ、割と簡単に寝返っていたのです。
大名や豪族に従う武士としては、自分の命も危険にさらされるわけですから、忠誠心うんぬんの前に、この人についていって大丈夫なのかを判断することは当然と言えます。
日本人は忠誠心が強いというイメージになったのは、江戸時代に入ってからで、歴代の徳川将軍は、大名に謀反を起こされたくないので、あの手この手で大名たちの忠誠心を植え付けてきたのです。
参勤交代も、大名にお金を使わせて、軍事費を削ぐために生まれたものです。
その参勤交代も、大名たちは律儀に従っていたので、忠誠心が高いと思われてきたのでしょう。
そういった様々な政策から、武士たちの江戸幕府に対する忠誠心を植え付け、そういったことが、日本の武士は忠誠心が高かったというイメージになったものと思われます。
■領地獲得できなければ負けなのか
戦国時代は国取り合戦とも言われていますので、戦争の時は、敵の領地を取得できれば攻撃側の勝ち、取得できなければ守備側の勝ちという考えが一般的です。
しかし、合戦の目的も様々ありますので、必ずしもそうとは限りません。
例えば、A国が、B国を攻めたいが、そうすると隣接しているC国が攻め込んでくるかもしれないという状況で、先にC国に攻め込み、C国の領土は奪わず、C国の無力化を図るというケースがあります。
C国に深刻なダメージを与えることができれば、この戦は領地を取得していなくても、A国の勝ちとなります。
兵士に損害を与えるということだけではなく、例えば武器庫や兵糧庫を襲撃して、それに成功して退却すれば、攻撃側の勝ちのはずです。
しかし、領地は奪ってません。
こういった例はそれほど多くはないですし、ゲームなどでも敵の領地を奪えなければ負けとなりますが、戦の目的は様々ありますので、領地を取得できなければ負けとは限らないということです。
歴史の合戦を考察する際には、勝ち負けの判断が難しい戦もあります。
領地取得したかどうかも、一定の基準ではありますが、それだけにとらわれることなく、様々な状況を加味して考える必要があるのかと思います。
■戦国時代の平均寿命
現代の平均寿命は80歳ほどとなっていますが、江戸時代より前は平均寿命が50歳くらいと言われており、70歳ではかなりの長寿だと思われる方も多いと思います。
ただ、これもよくよく考察する必要があります。
と言いますのも、平均寿命というのは、子どもが早死したものも含まれているということです。
現代では、医学が発達し、子どもが早死するケースが減ったので、正しい平均寿命に近づいているかと思いますが、江戸時代以前は子どもが生き延びれるかどうかは、今ほど高い確率ではないのです。
子どもは免疫力も成長段階ですので、病気にかかりやすく、今ほど医学が発達していないので、病気の原因が分からず、早死してしまうケースが、意外と多いのです。
これらのケースも含めるため、平均寿命は低くなってしまうのです。
しかし、それを乗り越えて大人になれば、免疫力が高まり、病気にかかりにくくなります。
もちろん、病気になってしまうと、今より治りにくいということはありますが、子どもよりは病気になりにくくなります。
そうすると、平均寿命と考えられていた50歳で死ぬということはあまりなく、もう少し長く生きられていたようです。
つまり、子どもの早死を差し引いた平均寿命は、60~70歳くらいになるようで、50年しか生きられないというのは、少し間違った認識なのかと思います。
織田信長が死ぬ間際に、人間50年という歌を歌ったことから、平均寿命は50年くらいという認識が広まっているのかと思いますが、それもあくまで信長の感覚であり、実際は幼少期を乗り越えてしまえば、もう少し長く生きられるというのが今の認識になりつつあります。