歴史の計略に学ぶ4
前回に続き、私が感心した歴史の計略をご紹介させていただければと思います。
■曹操の二虎競食計
中国の三国鼎立の前、曹操が袁紹を官渡の戦いで破り、袁紹が病死した後、長男の袁譚と次男の袁煕との間で後継者争いが起こります。
普通なら長男の袁譚が後を次ぐのですが、次男の袁煕の方が優秀ということで、家臣からの勧めもあり、袁煕が後継者の座を奪おうとしたようです。
河北の支配を目論む曹操は、長男の袁譚に加勢するという名目で、争いに乗じて徐々に曹操の領土を広げていきます。
その後、曹操は袁譚にも攻撃をしかけて、袁譚、袁煕ともども南皮まで追い詰めます。
誰もが一気に袁家一族を滅ぼすものと思いましたが、曹操は容易に攻め滅ぼせるものではないとして、一度軍を退けます。
もし、このまま攻め続ければ、袁家一族が結束して抵抗することは必至で、敵味方ともに甚大な損害で出てしまいます。
そこで、曹操は一度軍を退いて、二虎競食計を用いたのです。
二虎競食というのは、二人の強者を互いに攻撃させて弱らせ、漁夫の利を得る計です。
曹操は、袁譚と袁煕の共通の敵である自分がいなくなることで、後継者争いが再発すると読んだのです。
案の定、袁譚と袁煕は、敵である曹操が遠ざかったことで、またも後継者争いを起こし、密かに袁煕は袁譚を殺害して、袁譚の首を曹操に送ってきました。
その混乱に乗じて、曹操は袁煕をも容易に攻め滅ぼしたということです。
通常の二虎競食計は、二人の強者をそそのかして争わせるのですが、共通の敵である自分が一度遠ざかることで争いを起こさせたという点で、見事な計略かと思いました。
曹操は、優秀な軍師を多数抱えていましたが、君主本人の頭脳も優れていたと言えるでしょう。
■東南の風
曹操が袁家一族を滅ぼした後、曹操は南下して孫権・劉備を攻撃します。
この時、劉備と孫権は手を組んで曹操と戦うことにするのですが、劉備の軍師・諸葛亮と孫権の大都督・周瑜は、ともに火計を用いて曹操の大船団を燃やす計画を立てます。
有名な赤壁の戦いです。
しかし、当時は北西の風が吹いていて、孫権・劉備軍にとっては逆風となり、火計を用いれば自分たちの船に火が移ってしまいます。
この時に諸葛亮は、東南の風を祈祷によって呼び起こすと言うのです。
誰もが信じることができませんでしたが、七日間の祈祷の末、本当に東南の風が吹き、火計によって孫権・劉備連合軍は大勝利を収めることができたのです。
諸葛亮は地理や気象にも精通していて、この時期に東南の風が吹くことは知っていたのであり、本当に祈祷によって東南の風を呼んだわけではありませんでした。
ただ、このことによって諸葛亮は天候も操れるということを敵味方ともに印象づけたという狙いがあったのです。
もし、天候も操れる神のような存在であれば、劉備軍に逆らうのは得策ではないと人々が考えることを狙ったのです。
この話はフィクションのようですが、現在でもこの知識が役に立つことはあります。
毎年、毎日の気象状況や風向きなどを観察しておくことで、この時期は雨が振りやすいとか、風向きからこれから寒くなるなど、経験から予想ができるようになります。
昨今は、地球温暖化による異常気象のせいで、気象庁でさえ予想が難しくなってきてはいますが、そういった気象をよく観察しておくことは、生きていく上でも非常に良いことかと思います。
■赤壁追撃戦
赤壁の戦いで大勝利を収めた劉備は、この機に北に逃げる曹操を追撃します。
この時、劉備の軍師・諸葛亮は、各地に伏兵を置いて曹操に損害を与えます。
最後の伏兵に劉備の義弟・関羽を置いて、煙を一筋炊いておけば曹操は誘われてそちらに来ると指示しました。
曹操は逃げに逃げて、分かれ道に辿り着いた時、一方は平坦で、もう一方は山道で一筋の煙が見えると偵察から報告を受けます。
頭の良い曹操は、山道に伏兵がいると見せかけて、実はいないという裏を読み、山道を進みました。
そこには関羽が待ち受けていたので、曹操は驚きました。
諸葛亮は曹操の性格を知り尽くし、裏の裏をかいて伏兵を置いていたのです。
しかし、この時、関羽は曹操を見逃しました。
関羽は、以前に曹操に捕まったことがあり、その時に手厚い待遇を受けていたのです。
曹操と劉備が争っていた頃、劉備とはぐれてしまった関羽は、曹操に一度降伏します。
関羽を家臣にしたい曹操は、関羽の条件を受け入れて関羽の心変わりを待ちました。
しかし、義理堅い関羽は、劉備の居場所が分かると、その条件によって曹操の元を去ります。
曹操もやむを得ず約束を守って、関羽を送り出した経緯があり、関羽にとって曹操は、恩義のある人だったのです。
関羽はそれがあったので、赤壁追撃戦で曹操を斬ることができず、見逃してしまったのです。
戻った関羽は、諸葛亮に軍令違反だとして、斬られそうになります。
義兄である劉備はそれを止めましたが、それも諸葛亮の計算通りだったようです。
諸葛亮は、曹操がまだ死ぬ時ではないことを占星術により知っていましたので、関羽に曹操の借りを返させたのです。
さらに、諸葛亮が関羽を斬ると言った時も、必ず誰かが止めることが分かっていました。
この時、諸葛亮が自ら軍令違反を許しても良かったのですが、それをすると傲慢な関羽が図に乗る可能性があったため、関羽を諸葛亮に従わせるために、一芝居打ったというのです。
つまり、諸葛亮には、関羽が曹操を見逃すことも、それによって関羽の曹操への借りが返せることも、関羽を斬ろうとしても誰かが止めることも、分かっていたということです。
さらに、関羽を諸葛亮に完全に屈服させて、思い通りに指示できるようにしたというのですから、驚きとしか言いようがありません。
この話も三国志演義の作り話としても、見事なお話と言えるでしょう。
■死せる孔明生ける仲達を走らす
三国鼎立後、劉備亡き後、蜀の丞相となった諸葛亮は、魏を滅ぼすために北伐を開始します。
魏には頭の良い司馬懿が大都督となって、諸葛亮の侵攻を防いでいました。
この争いは長引いてしまい、老齢となった諸葛亮も死期を迎えます。
諸葛亮の弟子である姜維は、死ぬ間際に諸葛亮からある計略を託され、諸葛亮はついに病死してしまいます。
諸葛亮が死んだことにより、蜀軍は撤退を開始します。
魏の司馬懿は、突然蜀軍が撤退を開始したことで、諸葛亮が死んだと悟り、すぐさま追撃を開始しました。
ところが、蜀軍は取って返して魏を迎え撃ちました。
蜀軍の後方には諸葛亮がいるように見えました。
司馬懿は、諸葛亮が生きていることに驚き、慌てて撤退しました。
諸葛亮は死ぬ間際、弟子の姜維に、自分の人形を作っておいて、敵が追撃してきたら、その人形を掲げて反撃せよと指示しておいたのです。
その後、悠々と蜀軍は撤退することができたのです。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」
という故事は、このお話です。
孔明は諸葛亮の字(あざな)で、仲達は司馬懿の字です。
司馬懿は
「生きている人間ならばどうにでもしてやれるが、死んでいる人間では何ともならん」
と負け惜しみを言ったようです。
死期を悟った諸葛亮は、自分の考えを兵法書に残したり、様々な指示を家臣に与えておき、死後も蜀のために尽くしたと言われています。
三国志を面白くしているのは、仁義に厚く、魅力あふれる劉備と、非常に頭の良い諸葛亮の存在でした。
三国志演義も、諸葛亮が死んだところで、ほぼ終わっていて、著者もその後の話はあまり書く気になれないと残しています。
私も彼らに魅了された一人ですが、三国志はもっと魅力あるお話がたくさん詰まっていますので、まだ知らない方は、ぜひ小説などをご覧いただければと思います。