武田家が滅亡したのは信玄のせい?

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■なぜ武田信玄は自分の死を三年も隠させたのか

武田信玄といえば、戦国最強の大名と言われるほどの人物ですが、武田信玄の最大の失策は、遺言と言われています。

武田信玄の後継者は武田勝頼となりましたが、その勝頼がまだ頼りないと判断した武田信玄は、
「自分の死を三年は隠せ」
と命じてこの世を去りました。

武田信玄が健在であれば、迂闊に他の大名も手が出せませんし、その間に武田勝頼が家臣達の心を掴み、立派な大名となってほしいということから遺言を残したと思われます。
しかし、意気揚々と上京をしていた途中で、急に武田軍が退却したために、武田信玄が急死したのではないかという噂はすぐに隣国にも流れてしまいます。

そのため、徳川家康軍が一気に盛り返し、武田領へ猛攻を仕掛けてきます。
攻撃を受けた城主は、武田勝頼に援軍を要請しますが、武田勝頼は遺言があるので動けませんでした。
武田勝頼だけが援軍に向かったのでは、武田信玄の死をバラすような行動となるので、動けなかったのです。

このせいで駿河などの城は陥落し、武田勝頼の信頼はガタ落ちとなってしまいます。
徳川軍の猛攻は続き、次々に武田の城が落とされてしまう中、勝頼はとうとうしびれを切らして、三年を待たずに徳川攻略のために出兵します。

ただ、武田勝頼は信玄が思っていたよりも優秀な人物で、この後武田軍は徳川軍に攻勢をかけて、領地を信玄以上に広げることに成功します。
しかし、長篠城の攻略中に、織田信長と徳川家康本隊の援軍が接近します。

織田軍は馬防柵を作り、武田軍を挑発しました。
勝頼は、家臣の制止を全て無視して、突撃を仕掛けますが、織田軍の鉄砲隊にやられ、大敗を喫することなります。

この勝頼の行動は、武田信玄の遺言の影響があると言われています。
武田信玄が、勝頼が頼りないと判断したことで、周囲の信頼を失っていたため、なんとしてでも織田と徳川を追い返して、信頼を勝ち取りたいという思いがかなり強くなっていたようです。
つまり、長篠の戦いの敗因は、武田信玄の遺言のせいである可能性が高いのです。

もし、武田信玄が自分の息子を信頼し、全てを勝頼に託していれば、このような焦った突撃をせず、武田の滅亡も免れていたかもしれません。
武田信玄は病気のために、正しい判断ができずにそのような遺言を残してしまったという説もありますが、武田信玄としてみれば、最も優秀だった長男の武田義信を自分の手で殺してしまい、その長男と比較してみれば、勝頼はあまりにも頼りないという判断だったのかもしれません。
武田信玄の遺言も失策ではありましたが、それは結果論であり、当時はそれが正しいと判断したのだと思われます。
 



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