諸葛孔明は天下三分の計を説いていない?

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■天下三分の計

劉備が荊州にいた頃、諸葛亮を登用するため、三度諸葛亮の家を訪れます。
有名な三顧の礼ですが、諸葛亮が劉備に会った時、諸葛亮は天下三分の計を説いたと言われています。

しかし本当は、諸葛亮は天下三分の計を説いたわけではありません。
最終目標はあくまで天下統一であり、天下三分はその過程にすぎないのです。

諸葛亮が説いた戦略は次のようなものです。
曹操の魏は強国なので後回しとし、呉も孫堅、孫策、孫権の三代に渡る強固な基盤があるので、容易に攻略できないのでこれも後回しとします。
なので、まず軟弱な劉表を攻撃して荊州を抑え、次に暗愚な劉璋の治める益州を攻略して、魏や呉と対抗できる国を作ることを目標とします。
その後、呉と結んで魏を攻め滅ぼし、最後に呉を打ち破って天下を統一するという壮大な計画だったのです。

ただ、実際に事を運ぼうとすると、劉備の義理堅い性格が邪魔をしてうまくいきませんでした。
最初の攻撃目標である劉表は、姓が同じ「劉」で、劉邦の子孫という意味で親族となりますし、劉表は劉備が荊州に逃げてきた時に匿ってくれたという恩もあり、劉備は攻撃に反対しました。
その結果、曹操軍が荊州に攻めてきて逃げることになってしまうのです。

何とか赤壁の戦いで曹操軍を追い返し、荊州を強引に手に入れましたが、次の益州攻略も、同族である劉璋が相手となってしまうので、最初は劉備は攻撃に反対しました。
周囲の家臣が必死に説得し、何とか益州を攻略しましたが、その後、今度は呉の裏切りによって、荊州を守っていた関羽が殺されてしまいます。

関羽は劉備にとって、生死を共にすると誓った大切な義兄弟で、どうしても呉を許すことができず、呉に大軍を差し向けます。
家臣たちは、呉との同盟を取り戻して、魏を先に討つべきと止めましたが、劉備は結局それを聞かずに、呉を攻撃しました。

その結果、夷陵の戦いに敗れて、劉備は死期を早めて死んでしまいました。
この大敗はそう簡単に修復できず、結局三国鼎立時代が長引いてしまったのです。

全て諸葛亮の言う通りに進めていれば、劉備は天下統一することができたかもしれませんが、劉備の義理堅い性格が勝ってしまい、うまくいかなかったと言えるでしょう。
しかし、劉備の魅力もそこにあり、だからこそ諸葛亮も劉備に生涯を捧げたとも言えます。
三国志の魅力もそこにあると言えるかと思います。

 



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