真田幸村は家康を憎んでいなかった?

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※この記事は過去の記事からの再掲載となります。

 

■真田幸村はなぜ大阪城戦で家康と敵対したのか

真田幸村(本名は信繁)は、歴史ファンの中でも人気のある武将ですが、真田幸村が最も活躍したのは大阪城戦のみで、それ以外は父の真田昌幸の方が目立っています。
江戸時代に真田幸村を主人公とする小説が流行ったために、現代でも人気があるのです。

しかし、真田幸村が大阪城戦で、執拗なまでに徳川家康と敵対したのに疑問を持つ人も多いようです。

そもそも、真田昌幸と幸村は関ヶ原の戦いの時に西軍につき、上田城戦で徳川秀忠(家康の息子で後の徳川二代目征夷大将軍)を翻弄したことで、秀忠の恨みを買ってしまいます。
この時、幸村の兄の真田信之は、徳川家家臣の本多忠勝の娘を娶っているため、東軍につきました。

関ヶ原の戦いで東軍が勝つと、真田家は窮地に陥ります。
真田父子は切腹させられてもおかしくなく、事実、徳川秀忠はそれを望んでいました。

ところが、真田信之の義父本多忠勝らのとりなしにより、両名とも命は助けられ、紀伊国(和歌山県)の九度山に流されます。

その十数年後に大阪城戦が始まるのですが、その間に真田昌幸は病死してしまい、真田幸村も48歳という当時としてはかなりの高齢に達しています。

徳川家康は、真田家を重んじて、真田信之に幸村を説得させます。真田幸村が徳川につけば、国一つを差し出すという好待遇です。
しかし、幸村はこれを拒絶しました。

並みの武将であれば、家康に関ヶ原の戦いの後に命を助けられている恩もありますし、それほど豊臣家に執着がなければ、このような好待遇を喜んで受けたでしょう。
では、なぜ真田幸村は徳川との戦いを望んだのでしょうか。

これも推測になりますが、真田幸村は自らの名を歴史に刻むために、執拗に徳川との戦いを望み、命を華々しく散らすという考えだったと思われます。

幸村としては、徳川家に対する恨みや不満は、それほどありません。
豊臣家に対しても、どうしても味方しなければならないほどの恩があるわけでもありません。
だとすれば、自らの死に場所を求め、真田家の武勇、戦術を世に知らしめたかったという理由しか考えられません。

絶望的不利な豊臣軍でしたが、真田隊だけは、寄せ集めの兵にも関わらず、見事な指揮系統と戦術、そして怒涛の突撃により、ついに徳川家康本隊に迫り、徳川家康は切腹の準備をするまでに追い詰めました。
その結果、徳川家康は、「真田こそ日の本一の兵(つわもの)なり」と評し、真田の名は永遠に残ることになったのです。

幸村が徹底抗戦をしたせいで、徳川方の真田信之は立場が悪くなります。
特に徳川秀忠の恨みはすさまじく、大阪城戦の後も色々と難癖をつけ、ついには上田城没収とまでなりますが、信之はなんとか切り抜けて真田家を存続させることができました。
そのような兄の立場も、幸村であれば予想できたはずですが、幸村はそれも致し方なしとして徳川と戦いました。

真田幸村の思惑は当たり、真田家の名は今でも響き渡っています。
私も真田幸村は最も好きな武将ですが、大阪城戦の活躍により、見事天下に名を残し、その武勇を示したと言えるでしょう。
 



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